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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国・卑弥呼 その2 ブログトップ
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第五節 「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第五節 「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想
 旅行中志摩市にいるときに、「邪馬台国は三重県にあった」直井裕著という本を知り読んでみました。
 邪馬台国は三重県にあった理由として以下の理由をあげておられる。青玉は蛍石であり三重県で取れる。真珠もとれる。丹(辰砂)や水銀も取れる。海辺の国でありサメ避けの入れ墨をしている。冬でも野菜が採れる。伊勢市の遺跡は弥生時代後期になって急に増えている。距離方角も上げておられるが、私にはよくわかりませんので割愛します。卑弥呼は伊勢神宮の近くにいたのではないか、としておられる。狗奴国の狗は犬であり、愛知県には犬を一緒に埋葬している墳墓が多く見つかることと、抜歯の仕方より、狗奴国は愛知県にあった、としておられる。
 狗奴国は愛知県でも三河であろう。尾張は邪馬台国に属していたから南にあると言っても間違いではない。また志摩国から見れば三河は東であるが、東としている中国の文献もある。邪馬台国三重県説はこの方以外に知らない。

 私は日女命(卑弥呼)がいるべきところにすべて稚日女命がいたので、これは神社の祭神が改ざんされているということに気づいて、稚日女命を祀る神社の由緒を調べていくうちに神戸の生田神社と鳥羽の伊射波神社に行きついたので、詳しく調べているうちに、邪馬台国は志摩国にあったという結論になりました。
 第三章の「邪馬台国のロマンを探る」特に「古代の国にタイムスリップ」の部分は空想科学小説のようでもあり「不思議なコーヒーショップのモカの味わい」にしても、芥川龍之介の「河童」をほうふつとさせるものであり、買って損したとは思わなかった。卑弥呼は徐福の子孫である、というくだりになると、誰も信じないだろうと思いながら、やはりそうかもしれないという思いもある。魏志倭人伝の鬼道とは道教である、としておられるがそれ以外は直観であろう。
 私の理由はいくつかあります。徐福も天照大神も蒜山高原(東海の三神山の一つの瀛州山の瀛州)にいたということと、徐福は始皇帝に言われていた「三神山に留まり王となれ」という言葉を守り三神山で王となった。王とは同じ高天原(蒜山高原)にいた天照大神と思われる。徐福は道教の方士である。卑弥呼は第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であり、天照大神の子孫である。天照大神は男性であり徐福である。卑弥呼も民衆を鬼道(道教)でまどわした。
 卑弥呼は120歳まで生きたとか、狗奴国の王と結婚していた、とかについては理由が示されておらず、なるほどとはならなかった。


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第四節 千田の御池の説明版より [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第四節 千田の御池の説明版より
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 大歳の神前へ真鶴が稲穂をふくみ来て落としたので、倭姫命がその稲の美しいのをご覧になり千田の神池に種つぎされて、その秋は垂穂・八握穂にたれて、はなはだ見事であった。それで日本国中へその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社・八百万の神たちに神酒をつくり、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。
 その後聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ「わたくしその地を遊覧しよう」と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである。
 持統天皇この地に行幸あり、数日みこしを留めさせられ、勅賜門を建てられた。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りをして、神池の霊水をいただき、太子のお影を拝むことが故実となっていた。のちに、堂宇は雨露のため破れ、御影を仮殿に安置して再建しようとしたが、かなわなかった。思うに、太子は神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者・士農工商いづれか太子の報恩を知らないでいられようか。
  文政十三年寅正月    志州磯部宮本無量山 願主千田寺

1.勅賜門がなぜ建てられたかを考えてみると、千田寺の前に建てたようである。それを建てるまでは、千田寺に自由に出入り出来ていたようである。太子自ら三歳の姿を彫刻した像のある、太子の建てた千田寺を封印するためである。
 壬申の乱の時に、持統と不比等は天武天皇と一緒にここも訪れた。天武天皇から「私は天照大御神の子孫である」と言われた。その時はまだ伊勢神宮はなかった。持統は不比等から天武天皇を毒殺するように頼まれていた。天武天皇を毒殺してから、聖徳太子(蘇我入鹿)の崇りを封印するために不比等の依頼で勅賜門を建てた。1年に7日しか拝観できないような寺はやがて衰退するのは分かりきったことである。

2.天智は百済の官僚機構の左大臣右大臣制度を導入したが、天武天皇はこの制度を廃止し以前の官僚制度に戻した。しかし、持統は天武天皇が廃止した百済のこの官僚機構(左大臣右大臣制度)を再び復活させたという説がある。日本書紀を読むとこのように思われるのだが、660年より倭王朝と百済王朝が列島に並立していて、日本書紀は百済王朝の歴史を基本としているが倭国の有力な天皇を転記している、と考えれば倭国には大臣制度がなかったのであるから何もおかしくはない。
 
3.倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿)は同郷である。
 卑弥呼は師木(鳥取県湯梨浜町)の出身であり、蘇我氏は葛城(鳥取県北栄町)が出身母体である。どちらも鳥取県中部である。天武天皇は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子であり卑弥呼(倭姫命)の子孫になる。


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第一節 いざわ宮(磯部)と、いざわ神社(安楽島)に行ってきました。  [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第一節 いざわ宮(磯部)と、いざわ神社(安楽島)に行ってきました。 
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三重県鳥羽市安楽島集落です。
伊射波神社に行くにはここから徒歩で岬を1.2km上がって行かなければなりません。
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ここを通ってからまた上がってください、と表示がある。前は伊勢湾である。

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やっと伊射波神社に到着しました。眼下に伊勢湾が広がる。ここで海抜100mくらいであろうか。
伊射波神社本殿である。
 魏志倭人伝によると宮室と楼観があったそうである。楼観は高いという修飾語がついていないから普通の高さ7mくらいであろう。長瀬高浜の25mにもなろうという高い建物ではない。長瀬高浜の建物はやはり特別な高さで大国主のために建てられた出雲大社のモデルであろう。楼観跡はあちこちの遺跡で見つかっており、普通は7~8mの高さであった。まだ発掘はされていないが、背後から敵が来る恐れもあるので、楼観があったものと思われる。背後に点々と見張りを置いておくだけでよいから、地形を利用した要害の地である。

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