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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国(女王国)は志摩国であり、倭姫命は卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 

1  魏志倭人伝の女王国より「以北」21ヶ国
 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。
 1.斯馬國(志摩国)。2.己百支國。3.伊邪國。4.郡支國。5.彌奴國。6.好古都國。7.不呼國。8.姐奴國。9.対蘇國。10.蘇奴國。11.呼邑國。12.華奴蘇奴國。13.鬼國。14.為吾國。15.鬼奴國。16邪馬國。17.躬臣國。18.巴利國。19.支惟國。20.烏奴國。21.奴國。此れ女王の境界の尽きる所なり。
※私見
 女王国より「以北」21ヶ国だから、最初に書いてある斯馬國(志摩国)が女王国であり邪馬台国である。

2 「倭姫命世紀」について

(1)倭姫命(卑弥呼)
1.大和国・宇多秋宮    (阿紀神社=奈良県宇陀郡大宇陀町)
2.大和国・佐々波多宮   (篠畑神社=奈良県宇陀郡榛原町)
3.伊賀国・市守宮     (宇流冨志禰神社=三重県名張市)
4.伊賀国・穴穂宮     (神戸神社=三重県上野市上神戸)
5.伊賀国・敢都美恵宮   (都美恵神社=三重県阿山郡伊賀町)
6.淡海国・甲可日雲宮   (頓宮=滋賀県甲賀郡内)
7.淡海国・坂田宮     (同=滋賀県坂田郡近江町)
8.美濃国・伊久良河宮   (天神神社=岐阜県本巣郡巣南町)
9.尾張国・中嶋宮     (酒見神社=愛知県一宮市今伊勢町)
10.  三河国渥美宮       (?)
11.  遠江国浜名宮       (?)
12.伊勢国・桑名野代宮   (野志里神社=三重県桑名郡多度町)
13.鈴鹿国・奈具波志忍山宮 (布気皇館太神社=三重県亀山市布気町)
14.伊勢国・阿佐加藤方片樋宮 (加良比乃神社=三重県津市藤方森目)
15.伊勢国・飯野高宮    (神山神社=松阪市山添町)
16.伊勢国・佐々牟江宮   (竹佐々夫江神社=三重県多気郡明和町)
17.伊勢国・伊蘓宮     (磯神社=伊勢市磯町)
18.伊勢国・大河之瀧原宮   (同=三重県度会郡大宮町)
19.  久求小野宮        (?)
20.伊勢国・矢田宮     (同=伊勢市楠部町)
21.伊勢国・家田田上宮   (神宮神田=伊勢市楠部町)
22.伊勢国・奈尾之根宮   (津長神社=伊勢市宇治)
23.  伊勢国 渡会宮      (?)
24.伊勢国・五十鈴宮     (?)
25.志摩国・伊雑宮     (同=三重県志摩郡磯部町)
(2)豊鋤入姫命(台与)
1.大倭国・笠縫邑     (檜原神社=桜井市三輪?)
2.丹波国・吉佐宮     (籠神社=京都府宮津市字大垣?)
3.大倭国・伊豆加志本宮  (与喜天神宮=桜井市初瀬字与喜山?)
4.木乃国・奈久佐浜宮   (日前、国懸神宮=和歌山市秋月?)
5.吉備国・名方浜宮    (伊勢神社=岡山市番町?)
6.大倭国・御室嶺上宮   (大神神社=桜井市三輪?)
 倭姫命(卑弥呼)には、安倍、大伴、物部、中臣、和珥(わに)氏など五人の有力将軍が随伴していた(倭姫命世記)。天照大神を戴くヤマト軍が侵攻してきたとき、その国の人々は、ヤマトの支配に従うか、それとも戦うかの選択を迫られた。
 大神は国名を問いかけた。国名を問われることは、帰順の諾否を尋ねられることであった。大神の問いかけに対し、国の長は従順に返答し、自分の国を差し出していった。「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女の貢上、地口や御田、物品の進上などが列挙されている。
 「倭姫命世紀」に倭姫(卑弥呼)が嶋(志摩)の国を巡行した折に「神堺を定めたまひき」とある。それは倭姫(卑弥呼)による志摩国の領有、王権の支配拡張を意味する。

※私見

 倭姫命が最後に至ったところが志摩国であり、そこに神堺を定めた。志摩国が倭姫命(卑弥呼)の邪馬台国である。

 倭姫命は全国と半島を平定した。ただ、この時は、祭祀場を大和国(奈良)の纒向に決めたが、倭姫命の「安全な居所を探すための」巡行(21国)であった。全国の平定も「倭姫命世紀」と同じやり方の巡行であったと思われる。

 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世紀にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。

​ 倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​

 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。

 倭姫命世紀は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行のあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。

 倭姫命は孝元天皇の妹であり、豊鋤入姫命は景行天皇の妹であった。国史を改ざんしたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。 

 安楽島町と伊射波神社との間には径100歩余り(現代人の平均身長は170cmくらいでありその一歩は70cmくらいだから70mあまりとなる)の前方後円墳も存在する。

3 魏志倭人伝に見る「千人の婢」について

 「魏志倭人伝」には、「以婢千人自侍」(女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ)とあり、「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女(うねめ)の貢上が書かれている。千人という数字をそのまま真に受けることはできないが、100国(121国はあったはず)から10人づつの釆女(うねめ)の貢上があれば千人の婢となる。この釆女なり婢がどういう立場にあるのかは、人質というような解釈もあるが、鬼(出雲神族)たちに捕らえられていた少女たちではないだろうか。卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に対して感謝の念を持っていた(アワビの献上など)。

 海女の祖お弁は倭姫命にアワビを献上した(海士潜女神社)。稚日女命にもアワビが献上されている(伊射波神社)。伊勢志摩の海女は「魏志倭人伝の千人の采女」と重なり、倭姫命や稚日女命は「魏志倭人伝の卑弥呼」と重なる。千人の采女が志摩国で海産物を採り、海女になったと思われる。そして、アワビを卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に献上した。

 現在の伊勢志摩の海女の起源は魏志倭人伝の「千人の采女」であった。倭姫命(卑弥呼)は千人の海女(千人の釆女)の祖お弁にアワビを献上された。纏向遺跡でアワビの殻が多く見つかっている。倭姫命や稚日女命は纒向遺跡の時代の姫であった。


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