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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた。
 

1 香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。
2 古事記には『倭建命は歌を詠んで、「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」』とある。
 長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
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 長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀。
小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)


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 6は柄部。7は中央部。
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 1は中央部。2は先端部

 倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。

 ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~477年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。

3 長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は1年半で道教を会得したから、卑弥呼は5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。


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