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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

「倭姫命世紀」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

​1 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった。はじめは、纒向から近い宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は鎌倉時代に京都の藤原氏が繋ぎ合わせ・改ざん・加筆したものである。
 藤原氏の作った日本書紀は原「倭姫命世記」を書換えている。「倭姫命世記」は藤原氏の手法からすれば、宮下文書におけるがごとくまず基本となる文書があり、それに自分たちの目的に合うように改ざんしていくということである。宮下文書は徐福が書いた原文があり、それを高天原は蒜山ではなく、富士山にあったと思わせるように書き換えていく、という手法である。
 これを「倭姫命世記」に当てはめるならば、卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録を基本とし、伊勢神宮の祭神である天照大神がどうして祀られるようになったか(天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行)ということを主眼に変えて書かれている。「一書に曰く」があるので、これも藤原氏が書いたものである。巡行の最後に志摩国に神界を定めるのであるが、その時に連れて歩いた天照大神は志摩の磯部の伊雑宮に祀った。これが伊勢神宮の本家である。現在の伊勢神宮も卑弥呼の巡行の頃に創建されたように書いているが、実際には倭国を乗っ取って(734年)から、奈良時代後期に創建したものと思われる。日本書紀と同じように、古く見せるという手法である。

2 内藤湖南は「豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は正しくて卑弥呼→台与とする倭人伝は誤り」とする。私見では「卑弥呼→台与とする倭人伝は正しくて、豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は誤り」となる。
 日本(百済)は倭国を乗っ取っているから倭国の歴史を改ざんする動機がある。全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するため、藤原氏によって伊勢国・伊勢神宮は創られた。伊勢神宮は多くの八百万の神を集めたテーマパークである。藤原氏だから奈良時代以前ではない。伊勢神宮は奈良時代後半に造られている。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするためには、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命→倭姫命としなければならなかった。目的も時代も違う巡行を「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするために、整合性を図って順序を逆にしなければならなかった。
 中国には改ざんする動機がない。国史より倭人伝のほうが正しいとして解釈すべきである。藤原氏の支配していた戦前では、「日本は倭国を乗っ取った」という前提は出せなかった。倭姫命は卑弥呼であり248年には亡くなっているから、全国を統一した卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために奈良時代後半に藤原氏によって創られた伊勢神宮はまだできておらず、倭姫命世記に書かれている伊勢神宮は藤原氏が中世になって書き加えた出鱈目である。伊勢神宮は今も藤原氏(鷹司)が頂点にいる。この時代は卑弥呼(倭姫命)の創った磯部の伊雑宮しかなかった。倭姫命はその頃なかった伊勢国に引き返してはいない。安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(日女命=日皇女)に名を変えて生涯を終えた。
 
倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、​倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​

 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。

 卑弥呼の墓は箸墓古墳ではなく、径70m余りで鉄剣と土器も出土している安楽島町の松の鼻古墳(姫小松=稚日女命)と思われる。
 鳥取県中部(倭国)で弥生時代後期からの多くの古墳(ほとんど円墳)で発掘されている剣は例外なく鉄剣である。卑弥呼は7歳まで鳥取県湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮(倭文神社)で育った。父親の不祥事(出雲神族の誤解)で但馬に疎開し、一年後さらに讃岐に疎開した。

3 倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と倭建命(若日子建吉備津日子命)は全国と半島を巡行してから、倭建命(若日子建吉備津日子命)と御真木入彦命(大吉備津日子命)は豊田市の猿投神社(開化天皇と崇神天皇)に居り、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は倭建命が亡くなった時は、まだ神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭建命(開化天皇)が亡くなってから即位した崇神天皇(御真木入彦命)は鳥取県北栄町の下神(しもつみわ)集落の神浅茅原に全国の代表者を集めて倭迹迹日百襲姫命に祭祀をさせた。この時、崇神天皇は愛知県の猿投神社を本拠地とし、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。しかし、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、奈良の纒向で全国の代表者を集めて祭祀をすることにした。しかし、奈良は平定したとはいえ青銅器文化の一族(出雲神族)が多くいた。1世紀には倭王朝に従って絵画土器を作っていたが、唐古・鍵遺跡や清水風遺跡などにいた一族はそれまで銅鐸を作っていた。青銅器文化の一族(出雲神族)は反乱することがあったので、崇神天皇をはじめとする倭王朝と卑弥呼は卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。それが、志摩国であった。
 纏向遺跡よりアワビの貝殻が多く見つかっているという(世界ふしぎ発見より)。稚日女命にアワビを献上してからさらにアワビを献上した都の「朝廷」とは奈良の纒向にあった朝廷であった。稚日女命(倭姫命)は纏向遺跡と同時代の姫と思われる。多くの魚介類の中でアワビが好物の姫は多くないと思われる。倭姫命もアワビが好物であった。これは偶然ではなく稚日女命と倭姫命が同一姫であったからと思われる。海女の祖お弁が倭姫命にアワビを奉納した(海士潜女神社)のだから、魏志倭人伝の千人の采女は海女たちに重なり(千人の采女は海女になった)、卑弥呼は倭姫命(稚日女命)に重なる。
 稚日女命(倭姫命)は志摩国から吉野町宮滝経由で纒向まで行き、面をして祭祀をし、帰りは和歌山の玉津島神社から海流に乗って何日も掛けて安楽島町の伊射波神社まで帰った。女王となりしより見たものは少なかった。その頃、崇神天皇(大碓命)は皇居(鳥取県湯梨浜町長和田)と奈良の纒向との間の岡山県津山の中山神社(御真木)にいた。ここにも、猿の伝承が残る。



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