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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

卑弥呼(稚日女=夜麻登登母母曽毘売)は七才まで鳥取県湯梨浜町宮内にいた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

1  鳥羽市安楽島町加布良古崎と鳥取県湯梨浜町宮内とは共通点がある。

 どちらも、海あるいは大きな汽水池に面していて、高台になっていることである。目の前の海あるいは池からは海産物やシジミなどの魚介類がとれる。伊射波神社の海抜は80mくらいで、宮内第一遺跡のあたりは50mくらいである。どちらもすぐ下が急な崖になって海あるいは汽水池に面している。

 卑弥呼は七才まで湯梨浜町宮内で過ごしたから、同じような環境のところを終の棲家とした。東郷池は水面が今より高く、東郷池と海との出入り口も広かったため、海の魚介類も入って来ていた。

 湯梨浜町宮内と安楽島町加布良古崎と違うのは、安楽島町加布良古崎のほうが気候が温暖であるところである。卑弥呼は幼少期を過ごした湯梨浜町宮内と環境の良く似たところを終の棲家とした。

2  伊射波神社の下の鳥居の海辺は船着き場であった。

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 伊射波神社の下の鳥居。船をこちらに着け、ここから左の急な坂を上がって海産物を届けた。伊射波登美や海女も船をここに着けた。

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 宮内集落の空撮。第1遺跡の下に船着き場が確認できる。

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 船着き場であった。当時は水面が2m~3m高かったから、新羅から来た大きな船でも接岸できた。

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 御冠山。下が宮内集落。その下が船着き場である。

 宮内の下は船着き場であった。水産物はここからあげていた。卑弥呼はここから船で長瀬高浜に巫女になる修行に行っていた。大陸(新羅)からの船もこちらに着船した。

 藤津は宮内から来るものや宮内に行くものを監視するために藤原氏が作った集落と思われる。百済(藤)津である。

 倭文神社の宮司は藤津に住んでいる。

3  藤原氏が作った岩のモニュメント

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4  私見

 倭文神社の祭神を書換え、藤津をつくり、下照姫ゆかりの岩のモニュメントをつくり、下照姫の伝承を全面に強くだしたのは、藤原氏と思われる。宮内(黒田庵戸宮)に孝霊天皇や夜麻登登母母曽毘売(卑弥呼)がいたことを消すためであった。国宝の経塚もあるが平安時代に京都の藤原氏が埋納したものである。「祭神を変えてしまったが、祟らないでください」と経塚を作った。倉吉市志津にいた下照姫の伝承を創作して孝霊天皇一族のいた神社を強奪した。

 

 

 

 

 

 


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