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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国・卑弥呼 その1 ブログトップ
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邪馬台国・卑弥呼について [邪馬台国・卑弥呼 その1]

1 「共立」というのは、相手国も卑弥呼をよく知っていたということである。卑弥呼の属する国と相手国は旧知の国同士であったと思われる。富氏の口伝によると、「神武から数代の王は我々の反乱を防ぐため出雲王家の娘を妻とした」とする。
 卑弥呼の母親(先祖は弟磯城で姓はハエ)は出雲神族の出身であった。母親が同族だから出雲神族も卑弥呼を共立した。倭国は鳥取県中部であったから倭国大乱は鳥取県中部(倭国)と鬼(出雲神族)の発祥の地の島根県東部(出雲国)との戦いであった。
 卑弥呼は天照大神・天忍穂耳・瓊々杵命・神武天皇の子孫であり、占領した地に銅鐸を置いて行った出雲神族の銅鐸文化圏の生まれではなく、天忍穂耳や家来の猿田彦が使っていた光らせて通信をする伯耆族の銅鏡文化圏の生まれである。

2 天穂日は元々鳥取県八頭郡にいた。大国主を生まれた時から守っていた天穂日は天忍穂耳と相談し国譲りの交渉で、葦原中津国に多くいた出雲神族(準王一族)のことを大国主に尋ねた。天穂日は出雲神族(準王一族)の動静を監視するため能義平野に行き、そこで殷王朝末裔の準王と出会った。天穂日は出雲神族(準王一族)と婚姻関係を結び、饒速日にも長髄彦の妹を娶らせた。
 しかし宗教の違いにより対立した。かたや生贄の風習を残す殷王朝末裔の準王一族と、かたや人命を大事にして人口を増やしたい天孫族とは相いれるものではなかった。富氏は「天穂日はスパイであり後続部隊の手引きをした」とする。その後、出雲神族(準王一族)は蜘蛛の子を散らすように全国に展開したので、伯耆国の神武天皇たちは全国の出雲神族(準王一族)を平定していった。第10代崇神天皇の時代に全国の準王一族(出雲神族=蝦夷)は平定された。

3 倭国大乱の始まりは出雲と伯耆の争いであった。出雲族は出雲王家の娘(高杉神社の祭神の松媛之命、千代姫之命)を孝霊天皇が殺したとして伯耆国を攻撃してきた。出雲軍は伯耆国を通らずに海路で青谷に上陸し、伯耆の天孫族が朝鮮半島より誘致してきた一族(青谷にいた和邇氏)を襲った。銅鏃が証拠である。女子供も殺している。そして、東郷池の黒田の地(湯梨浜町宮内)に攻めてきた。この時、倭迹迹日百襲姫命は7歳であった。
 倭迹迹日百襲姫命は父に遅れて、黒田の地(湯梨浜町宮内)を離れて天之日矛が建国した但馬国を頼って行った。倭迹迹日百襲姫命は倭国大乱を避けるために8歳から18歳まで但馬国より安全な讃岐に逃れていた。讃岐の水主神社の記録にも、「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。丹後国の海部氏系図に残る9世孫妹の「日女命」は、亦の名を倭迹迹日百襲姫命であるとされる。「日女命」は卑弥呼であるという説が有力である。
 長瀬高浜(タギシ)には巫女がいて航海の安全を祈っていた。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の皇女(ミコ)であり日皇女(ヒミコ)であった。11世孫の妹の「日女命」の亦の名である「稚日女命」と「倭姫命」も卑弥呼と思われる。倭迹迹日百襲姫命の弟の開化天皇(若建日子吉備津日子)と崇神天皇(大吉備津彦)も11年ほど親戚の天之日矛が建国した但馬国に疎開していた。

4 孝霊天皇は奈良から播磨を通ったのではなく、但馬国から因幡国を通って伯耆国に来た。鳥取県中部(倭国の都)を取り返してから鳥取県西部(妻木晩田や手間山)を攻撃した。原古事記には書いてあったはずだが藤原氏は孝霊天皇の旧辞を消している。但馬国から伯耆国だと伯耆国に都があったと推定されるからである。孝霊天皇は伯耆国奪回のために来た。
 戦いは皇軍が山を越えて斐伊川上流に入り、出雲軍とにらみ合いになっている時に、卑弥呼(稚日女命)が出した和平案により合意が成立した。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸は停戦の証として埋められたと思われる。 これは準王一族の軍備であり、これがあるために素戔嗚や大国主の本拠地が出雲国にあったことにはならない。素戔嗚・大国主の本拠地は伯耆国にあった。

5 全国を巡行した倭建命が訪れた地名(日本書紀・古事記)と稚日女命が祀られている全国の神社の所在地とを対比してみると、倭建命は単独ではなく稚日女命(倭姫命)と一緒に巡行していたことがわかる。
 倭姫命と倭建命は全国・半島を巡行して平定したあと、倭建命は豊田市の猿投神社を本拠地にし、倭姫命は神戸市の旧生田神社を本拠地にしていた。倭建命が亡くなったときの倭姫命の本拠地は神戸市の旧生田神社であった。崇神天皇の時代になり、倭迹迹日百襲姫命が祭祀をした三輪神社は鳥取県北栄町の三輪神社であった。その時も倭迹迹日百襲姫命の本拠地はまだ神戸市の旧生田神社であり、崇神天皇の本拠地は豊田市の猿投神社であった。倭建命の時代にすでに倭姫命は伊勢神宮にいたと記載している古事記・日本書紀は藤原氏による伊勢神宮を古く見せるための改ざんである。倭建命の時代には伊勢神宮・伊勢国はまだ存在しなかった。崇神天皇の時代に、纏向遺跡ができて志摩国の伊雑宮ができたのだから、倭建命(開化天皇)の時代は志摩国の伊雑宮でさえまだできていなかった。全国を統一した倭姫命(卑弥呼)や志摩国(邪馬台国)を封印するためにできた伊勢国・伊勢神宮があるはずがない。
 倭姫命は神戸市の旧生田神社を本拠地としていた。崇神天皇の時代、倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)は鳥取県北栄町の三輪神社に全国の代表者を集めて祭祀をしていた。倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社から、鳥取県北栄町の三輪神社にきて祭祀をしていた。しかし、東国の代表者が鳥取県北栄町下神まで来るのは大変であることがわかり、倭朝廷は奈良の纒向で祭祀をすることにした。倭迹迹日百襲姫命(倭姫命)は神戸市を離れて、纒向で祭祀をするための安全な居所を探さなければならなかった。
 倭姫命は纒向で祭祀することを念頭に置きながら、宇陀は居所として安全か、伊賀は居所として安全かを見極めながら巡行していった。倭姫命の単独の巡行だけならば、宇陀・伊賀から始まるため、おかしいと思われる。なんで奈良盆地からスタートしないのかと疑問に思われる。疑問に思われないために三輪神社で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に入れることにした。倭姫命は纒向で祭祀することを念頭に置きながら巡行したが、纒向ではなく三輪神社で祭祀することを念頭に置きながら巡行したと思わせるため、三輪神社から引き継いだとした。
 本来二人の巡行目的は違っていたが、天照大御神を座し奉るための場所探しという目的に変えて豊鋤入姫命→倭姫命の順番で引き継がせることにした。二人とも2代から9代までの欠史8代の皇女とするわけにはいかないので、豊鋤入姫命は10代の崇神天皇の皇女、倭姫命は11代の垂仁天皇の皇女とした。史実は11代垂仁天皇の皇女は豊鋤入姫命であり、倭姫命は第7代孝霊天皇の皇女であった。

6 卑弥呼(倭姫命・稚日女命)は、全国(東は岩手県、西は長崎県)と朝鮮半島を平定し、倭国(鳥取県中部)より温暖な志摩国を終の棲家とした。卑弥呼の出身国の倭国(鳥取県中部)とは離れた国であった。邪馬台国(志摩国)は卑弥呼が選んだ倭国(鳥取県中部)の分家である。出雲神族(鬼)のイザワトミを使役した。
 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。鳥羽の安楽島町と伊射波神社との間にある径70m余りの松の鼻古墳が卑弥呼の墓と思われる。身長170cmくらいの人の歩幅は70cmくらい(ヤフー知恵袋より)であり、100余歩は70m余りとなる。実際に誰かが歩いたものと思われる。これを×2にするのは箸墓古墳を卑弥呼の墓にしようというこじ付けである。松の鼻古墳からは鉄剣が出土している。


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