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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

​神武東征は不比等の創作であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

  ​神武東征は不比等の創作であった


1 日本書紀の神武東征の順序

➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国


2 古事記の神武東征の順序

➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子)


3 私見

 速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。

 明石平野の弥生時代の遺跡

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 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。椎根津彦(槁根津日子)は道案内をした。

 大分市・臼杵市に弥生時代の遺跡は少ない。

 速吸の門は明石海峡であり、古事記が順序としては正しい。


4 それでは古事記にある神武天皇たちが出発した「日向」とはどこか。
 通説は宮崎県の日向国とする。しかし、津田左右吉は昭和15年発刊の「古事記及び日本書紀の研究」において「宮崎県の日向国は膂宍の空国(肥沃でない国)とされており都であった証しがない。古墳群があるからというだけでは都にはならない」とし「日向とは宮崎県の日向国ではない」とした。
 ここで北九州の研究者は「日向は北九州にあった」とするが、北九州ではその前後がつながらない。邇邇芸命は「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」と言ったので、日向御子というあだ名をつけられた。日向とは邇邇芸が降臨した地のことである。

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 邇邇芸は成人になるまで、矢送神社と楯縫神社で過ごしたが、どちらも日陰であり日照時間も短いところである。上種の大宮神社に移ってから日当たりが良いので「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」といった。四王寺山も楯縫神社より海側にあるので日向の地である。邇邇芸が降臨したのは間違いなく、鳥取県北栄町上種の大宮神社である。神武天皇たち4兄弟が育った四王寺山も日向であった。神武天皇たち4兄弟は日向の四王寺山を出発した。最初の目的は九州の蝦夷の平定であった。倭国(鳥取県中部)にとって九州は半島に渡るために重要な場所であった。

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 神武天皇たち4兄弟は日向をたち山口県光市から船で宇佐に付き、稲飯命は鉄の武器を造るために半島に渡った。稲飯命は鉄の武器を造って半島の西側から船で岡田宮に帰ってきた。神武天皇は筑紫の岡田の宮で待っていた。岡田宮から吉野ヶ里遺跡に行くまでの2ケ所で紀元前100年頃の鉄鏃が出土している。これは神武天皇4兄弟が放った鉄鏃である。吉野ヶ里でも鉄鏃が見つかっている。吉野ヶ里では蝦夷が人間を奴隷にしていた。堀と柵の位置が通常の反対である。神武天皇たちは吉野ヶ里も攻撃した。紀元前100年頃の鉄鏃は鹿児島でも見つかっているので、神武天皇4兄弟は九州全域を平定している。

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​ イツセと磐余彦は九州を平定して生まれ育った倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが、ナガスネヒコの矢がイツセにあたり、いったん山陽に退却した。山陽でも蝦夷を平定した。しかし奈良には行っていない。倉吉市清谷の上里神社の由緒には「山陽に行った」とだけあり、奈良とは書いていない。

 神武天皇は福山市柳津と尾道市高須を拠点として蝦夷を平定していった。​

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 神武天皇は蝦夷に祭祀方法を変えるよう指導していた。銅鐸祭祀ではなく線刻土器祭祀を勧めていた。茨木市東奈良遺跡の線刻土器は紀元前1世紀のものであり神武天皇が変えさせた。しかし、奈良の線刻土器は紀元1世紀だから、神武の100年後、4代の懿徳天皇が奈良を平定し、線刻土器祭祀に変えさせた。神武天皇は摂津国までしか平定していない。


5 なぜ、不比等は神武東征を創作したのだろうか。

 津田左右吉はその著書「古事記及び日本書紀の研究」において「神武天皇の東遷の説話そのものが・・・ヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたことがわかるので、物語そのものからいうと・・・ヤマト朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考え難い」とする。

 「ヤマトの都において重要の地位を有するもの」とは藤原不比等であった。

 藤原鎌足は642年の百済からの船に乗っていた翹岐であり百済人である。不比等は百済系2世であった。白村江の戦いで亡命してきた百済王族を鎌足は宮崎県に逃がしている。平城京を造ってもらって不比等は百済王族を宮崎県から奈良に呼び寄せた。百済王族が宮崎から奈良に遷ったことを神武天皇に仮託して神武東征を創作した。古事記・日本書紀を改ざんし、西日本に神武東征関係のテーマパークを多く造った。

 神武東征関係の19の自治体が日本遺産登録のために運動している。私が調べた限りでは、創作された地がほとんどである。     

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