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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた。

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1 私見
(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。
(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降ではないかと思われる。イワレヒコは奈良や和歌山県の熊野までは行っていない。宮崎県民・奈良県民・和歌山県民は古事記・日本書紀で創られた「神武天皇」という幻想を見ていた。
 記紀にある神武東征で宮崎県の日向から和歌山県の熊野まで行くルートに矛盾が3つある。その1は、都であったとする宮崎県の日向からスタートするのはおかしいこと。2は、もし紀伊山地を縦断できたとしても疲労困ぱいで八十猛の軍に勝てるわけがないこと。3は、古来この地域に「熊野」と名のつく郡町村字が存在したことがないこと。以上のことから、神社・石碑・地名・伝承はそろっているが、これは不比等の時代から京都に遷都してからも藤原氏によってどこも疑われないように潤色したものであり、そろいすぎていてかえって不自然なのである。広島県・岡山県には神武天皇の自然な民間伝承が多いが、宮崎県・奈良県・和歌山県の民間伝承はわざとらしく思われる。
 イワレヒコは退却した後、しばらく山陽で過ごした。倉吉市の上里神社の由緒では「神倭天皇(鳥取県中部の)日向より東夷平定に(九州に発たれ平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進めたもう。・・・」とあり奈良・熊野は出てこない(カッコは藤原氏の神社庁によって削除された)。
 国史にある宮崎県から奈良県に神武天皇が都を遷したとする神武東征はすべて藤原氏による改ざん・創作である。学者はみな改ざん・創作された国史に基づいて東征ルートなどを机上で考えていた。神武天皇が実在しなかった場所(宮崎県・奈良県・和歌山県)に幻の神武天皇を創り上げていたので、神武天皇はいなかったという説(日本史の教科書)が出てくるのである。神武天皇は宮崎県・奈良県・和歌山県にはいなかったが、鳥取県・広島県・岡山県には実在していた。​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(3)日本書紀には「名草邑の女賊を誅し、佐野を越えて、熊野の神邑に至り天磐盾に登った」とある。
 名草戸畔は津山市二宮の宇那提森で誅された蛇と思われる。津山には娘が蛇になり宇那提森に住んだという説話がある。蛇は生贄を要求した。津山市の名草戸畔を蛇に変えたのは藤原氏と思われる。

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 津山市二宮の美和山古墳群・胴塚(一号墳)。ほかに、蛇塚(二号墳)、耳塚(三号墳)がある。
 イワレヒコは名草戸畔を胴、頭、足に切断して埋めたが、猿を退治して中山神社にいた崇神天皇(在位188年~220年)は古墳時代前期に美和山古墳群に手厚く埋葬しなおしたと思われる。
 藤原氏は津山の名草戸畔の伝承を和歌山にもっていって、3神社に祀り、名草姓の子孫まで創ったので、津山の本物は蛇にして隠さなければならなかった。名草戸畔は出雲の諸神の姻戚であり、龍蛇神を祀っていたので蛇とした。蛇は足がないから、耳塚とした。
 高野神社の主祭神は父のあだ名であり、創建時は神倭磐余彦であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
 佐野は総社市中心市街地と思われる。佐野山の地名が残っている。

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 古事記にある神武天皇が着いた「熊野の村」とは広島県福山市であった。
日本書紀の「熊野の」は藤原氏の加筆である。本当の「神邑」は福山市神村町であった。「天磐盾」は福山市の天津磐境であった。

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 福山市の天津磐境。通説は「天磐盾」を新宮市の神倉神社とする。原古事記に書いてあった「天磐盾」は「天」と「磐」が同じ天津磐境と思われる。神武天皇は福山市の天津磐境に登った。
 イワレヒコは倭国(鳥取県中部)からいったん撤退して広島県福山市を本拠地にしていた。
(4)神武天皇の伝承は以下の地域に残る。
 1.福山市柳津周辺 
  潮崎神社:御蔭山:磐田山:貴船神社:口の巖:神王屋敷:王人の巖:物見御座所:辺防地:城の坊:天津磐境:祭壇巖:鏡山:勝負岩:勝負原:王太子社:森御前:鎮神社

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 径3kmの範囲内にこれだけの伝承地が残っている。神倭磐余彦は倭国から撤退後、ここを本拠地にして各地にいた略奪集団(出雲神族=ナガスネヒコ一族、鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定し、倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 2.福山市浦崎
  高島:王太子神社:嶽神社
 3.福山市内浦町田島 
  皇森神社:内浦:磯間浦・口無泊:幸崎:俎の瀬:六合:箱崎:小用地:大越:大浦(王浦)・天迫:天皇神社・天皇の浜・天皇畑・天皇の洲:御手洗川:矢の島
 ※ 私見 田島の伝承は柳津周辺の伝承とは質が違う。田島の伝承は笠岡市高島の伝承と同じく神武東征神話の一環として藤原氏が創作したと思われる。島々を船で中継していったと思わせるためのテーマパークと思われる。
 4.福山市田尻町
  高嶋:竹ヶ端:高濱:王ヶ峰:宮原:蓑島大明
 5.尾道市高須
  高須:大元山:大元神社:木之本神社:加茂神社:神原:千畳屋敷・風呂井戸:穴倉屋敷・大将軍屋敷:弓細工
 6.三次市畠敷町 熊野神社  
 7.庄原市西条町高
  今宮神社伝承:神武天皇広島に御滞在中、物資を出雲(伯耆国淀江)方面より御取り寄せ遊ばさる。
 ※ 私見 出雲とあるが敵対していた出雲であるはずはなく(神武天皇の子孫の倭建命は出雲建を殺している)これも出雲を聖地にしようとする藤原氏による改ざんである。
 8.庄原市高野町南
  八幡神社:鬼城山
 9.   庄原市本村の葦嶽山
※ 私見
 イワレヒコは尾道も含めて福山市を軍事拠点にしていた。この時、西は宮島、東は摂津国、南はしまなみ海道を通って伊予国を平定している。北は庄原市高野町や西条町高に伝承地があり、庄原市本村の葦嶽山でも祭祀をしている。

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 古代史の復元では「使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く」とする。「古代史の復元」の筆者は出雲国という先入観があるようである。イワレヒコの使者は戸宇から八幡越えで日南町に入り日野川を下って淀江の津に至った。
 イワレヒコは福山市に滞在中、庄原市を越えて新羅から鉄製の武器の到着した米子市淀江の津との往復をしていたと思われる。
 一般には「武器調達と大和の様子見のために長期滞在をした」と言われている。倭を大和と書かせているが、大和は奈良だから、奈良の様子見のために出雲や鳥取県に行くはずはない。伝承でいう「大和」とは「倭」のことであり鳥取県中部であった。
 備後国北部から安芸国にかけても伝承が多いが、四兄弟が九州に行くときと、イツセとイワレヒコが九州から倭国に帰るときの2回通っているから伝承が多いのだと思われる。
 イワレヒコは倭国からいったん退却して福山市を本拠地として現地の人々の心をつかみ、軍備も蓄えていった。賊(略奪集団)の退治もしていたので土地の人々の心をつかみ、実戦経験も積んでいた。
※ 略奪集団(出雲神族=準王一族)の退治は以下のようである。
  庄原市高野町南の八幡神社 埴土丸といふ鬼神と数多の賊
  広島市安芸区瀬野の生石子神社 瀬野川の川上の賊
  呉市の八咫神社 いとも怪しき夷等
  岡山市児島宮浦の懸幡神社 奥津に荒ぶる神

(5)イワレヒコはしばらく福山市を本拠地として賊(ナガスネヒコの一族)を退治し周辺の人々の心をつかんだが、その後内つ国(鳥取県中部)に行くため、海を渡って着いた「荒坂の津」は、当時近くまで海であった岡山市の龍ノ口山の麓と思われる。

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 手前は蒜山高原に水元を発する旭川。その向こうは龍之口山。
 中ほどのグリーンシャワーの森から左上の龍之口八幡宮までの坂を荒坂と言ったはずである。出雲神族は荒神であり、龍蛇神を祀っていた。龍之口八幡宮にいたのは出雲神族と思われる。「戸畔」というのは女酋で出雲の諸神の姻威だといわれている。龍之口八幡宮にいたのは丹敷戸畔と思われる。神武天皇は高島にいたと思われる。
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 高倉下が剣を天皇に献上したのは岡山県赤磐市の石上布都魂神社の地と思われる。イワレヒコは岡山県の旭川を北上して蒜山高原(高天原)にたどり着いた。イワレヒコは蒜山高原(高天原)の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原(高天原)を宿営地にしていたと思われる。祖父のニニギは蒜山高原(高天原)の加茂神社と長田神社に祀られている。

(6)イワレヒコは内つ国(鳥取県中部)に赴くため、饒速日と同じ蒜山高原(高天原)の鏡ヶ成に立った。

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 ウマシマジのいた江尾とイワレヒコが立った鏡ヶ成はどちらも鳥取県江府町に属する。江尾と鏡ヶ成は昔から関係のあった土地と思われる。蒜山(高天原)から大立(王楯)に下りるには鏡ヶ成からスタートするしかない。
 饒速日には猿田彦がついて案内したが、イワレヒコにはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。鴨建津之身は小鴨川と県道45号線に近い関金の鴨ヶ丘に住んでいたと思われる。

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 道臣は、別ルートから鴨ヶ丘にいた鴨建津之身を連れてきて案内させたと思われる。

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 山守鴨ヶ丘地蔵堂。この奥に丘陵地があり、鏡ヶ成も見える。
 イワレヒコは祖父ニニギ(楯縫神社の祭神)のいた宇陀(倉吉市高城)に下りて行った。「道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に到着した」(古事記)。穿邑は倉吉市上大立集落と思われる。


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 「大立」は「王楯」と思われるのでしばらくイワレヒコがいたと思われる。イワレヒコは祖父ニニギと猿田彦がしばらくいた宇陀(倉吉市高城)に下りた。

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 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。山を穿って道を造ったから穿邑という。琴浦町三本杉から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線は神武天皇が造った。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが農道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線を造った。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。
 終点である琴浦町三本杉の隣の別宮も神武天皇が開いた。別宮から下って伊勢(すでに天照大御神が降臨していた)に至り、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。
 倉吉市高城(楯縫邑)も琴浦町八橋(笠縫邑)も即位後、神武天皇が開いた。
 その後、北谷地区(吉野)→三朝の片柴(忍坂邑)を平定して兄磯城を挟み撃ちにした。太陽を背にして南から平定していった。
 忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、素戔嗚の剣を持っていたイワレヒコが三朝町山田で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからと思われる。倉吉市高城(宇陀)から三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と三朝町山田(八岐大蛇伝説の舞台)を通らなければならない。
(7)「宇陀(倉吉市高城)で兄ウカシと弟ウカシが頑張っていた。兄ウカシは檄を飛ばして軍隊を集めたが、いっこうに味方につく者がなかった。」(古事記)。宇陀(倉吉市高城)の住民はニニギの人柄を知っているからその孫イワレヒコを殺そうとするものは誰もいなかった。兄ウカシは殺されたが弟ウカシはイワレヒコに従った。
 「天皇は宇陀の穿邑から巡行された。天皇は宇陀の高倉山(兄たちと住んでいた高見神社のある四王寺山)で国見をした。国見ヶ丘(蜘ヶ家山)には八十猛がいた。」
 「男坂女坂(黄泉平坂の蜘ヶ家山にさしかかる急な坂と蜘ヶ家山までのなだらかな坂)には男軍と女軍がいた」(日本書紀)
 「この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。」(古事記)。忍坂邑(三朝町片柴)では土蜘蛛に酒を飲ませて殺害した。
 イワレヒコは石上布都魂神社の地で高倉下に献上された素戔嗚の剣を持っており、また三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と八岐大蛇伝説のあった三朝町山田を通るので、素戔嗚の八岐大蛇伝説をヒントにして、忍坂邑で、はたから見れば卑怯な殺害をしたと思われる。
(8)宇田川は湯梨浜町の羽衣石川と思われ、羽衣石川に沿って下る坂が墨坂と思われる。

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 イワレヒコは忍坂(湯梨浜町の波関峠の坂)から下りて長和田集落からさかのぼり、男軍は三朝町山田から墨坂(湯梨浜町羽衣石集落の坂)に入り、下りて湯梨浜町羽衣石集落にいた兄磯城を挟み撃ちにした。この時、男軍も女軍もイワレヒコの皇軍についていた。

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 羽衣石川。右上は荒神社社叢。ここが宇田川と墨坂と思われる。
 炭焼きをしてもおかしくない土地柄。
(9)八十タケルがいた国見丘は北栄町の蜘ヶ家山と思われる。蜘ヶ家山の頂上に上がれば見晴らしが良く、古代の国見がどういうものだったかが分かる。

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 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」(日本書紀)のだから葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。
(10)イワレヒコの使者は米子市淀江町の津で新羅からの鉄製の武器を受け取っていた。鳥取県江府町江尾にいたウマシマジはイワレヒコの山陽(吉備国と安芸国)での活躍を福山市と米子市淀江町との間を何度も往復する父方のイワレヒコの使者から聞いていたはずである。

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 江尾神社より街並みを望む
 ウマシマジは母方のナガスネヒコ一族が掠奪集団であり、人々はイワレヒコに味方をしていることを家の前を通る使者から聞き、ナガスネヒコを殺害し、宇陀(倉吉市高城地区)にいたイワレヒコを追って帰順したと思われる。
(11)弟ウカシは猛田(三朝町竹田)の県主を命ぜられたが、その子孫は出来が悪くてもと居た宇陀(倉吉市高城)に帰らされ、水汲みをさせられていたと思われる。反面、弟磯城は磯城の県主として出来が良く、雄略天皇の時代には鰹木を高く掲げた家を建てるまでになっていた。


2 (参考) 古事記・日本書紀におけるイツセの死からイワレヒコの勝利まで
(1) 古事記
兄を失ったイワレヒコ命は悲しむひまもなく、その土地から迂回をつづけ、やがて熊野(福山市)の村へと着いた。
イワレヒコは寝込んでしまった。・・・(ここが長い)・・・。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を献上した。
たかぎの大神が言った。「この土地から深入りしてはならない。この奥には荒々しくすさまじい神々が大勢いる。天からヤタガラスを降ろしてやろうヤタガラスが道案内をするので従っていくがよい。」
やがて吉野川(岡山県の旭川)の河上に達した。
この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に達した。
宇陀での話。
この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。
その後ナガスネヒコに対して復讐の一戦を望むことになった。トミビコ(ナガスネヒコ)を討ち果たした。
兄磯城・弟磯城を攻めた。
伊那佐山の歌。
饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上。
(2) 日本書紀
イツセの死。
名草邑→神邑→天磐盾→海を渡る→荒坂の津。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を天皇に献上した。
皇軍は内つ国(鳥取県中部)に赴こうとした。
山の中で道に迷っていた。
天照大御神が「ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ。」と言った。
日臣は大久米を率いて鳥の導きのまま追いかけた。日臣は道臣となる。
宇陀の穿邑についた。
宇陀での話。
天皇は宇陀の穿邑から巡行し、吉野(倉吉市北谷地域)についた。
天皇は宇陀の高倉山(倉吉市高城山)で国見をした。
国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)には八十タケルがいた。
兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。
香久山の土を下して占った。
八十タケルを国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)に撃った。
忍坂の室(三朝町片柴)での話
兄磯城・弟磯城の話
忍坂の道から行く。直ちに墨坂を目指し、宇田川の水をとって敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に不意をつけば、きっと敗れるでしょう。
鵜飼いの歌。
男軍が墨坂を越え挟み撃ちにして兄磯城を破った。
ナガスネヒコと金鵄
饒速日(ウマシマジ)はナガスネヒコを殺害した。饒速日(ウマシマジ)は部下達を率いて帰順した。
饒速日(ウマシマジ)は物部氏の先祖である。
高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城とした。




 

 

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