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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた [日向三代と神武天皇四兄弟]

神武天皇たち四王子は鳥取県倉吉市の四王寺山にいた。

1 宮崎県高千穂町の四皇子峰

「宮崎県高千穂町の四皇子峰は神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある」とする。 

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 四皇子峰の案内板には「神武天皇の御兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御聖域とされている。彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子鵜鵝草葺不合尊は玉依姫と結婚され、彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四皇子がお生まれになっている。神日本磐余彦尊は高千穂の宮で東征について彦五瀬命とご相談され、日向から筑紫、安芸、備後熊野を経て大和に入られ、平和国家を築かれたという」とある。
※ 私見
 四皇子峰には四王子を守るための構造は何もなく、高いところに柵をして囲っただけのように見えた。鵜鵝草葺不合は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見尊(瓊々杵尊の御子で山幸彦)の御子ではない。日向3代ではなく日向2代であった。
2  鳥取県倉吉市の四王寺(しおうじ)山

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 彦火火出見(鵜草葺不合)は鳥取県倉吉市の四王寺山に宮を定めた。
 宮崎県高千穂町の四皇子峰の周囲には何もない。遺跡もない。鳥取県倉吉市の四王寺山の周辺からは旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が見つかっている。
 四王寺山の麓の集落は大谷と北面があるがこの集落を通らないと四王寺山に上がれないようになっている。

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 倉吉市大谷集落。大谷集落の前にある高さ3mの丘陵地から紀元前100年頃の住居跡が発掘されたので、高さ3mの丘陵は紀元前100年頃には存在していた。高さ3mの丘陵地は大谷集落を守るために存在していたと思われるので、大谷集落も紀元前100年頃には存在していたはずである。
 下(南)の県道側の集落正面から3mの丘陵をくぐり抜け大谷集落に入っても、入山口はわからない。まっすぐ行けば寺に突き当たる。私は寺で聞いたが、誰かに聞かないと入山口はわからない。古代、準王一族(出雲神族)が入山口を尋ねたら殺されたと思われる。

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 倉吉市北面集落。入山口が分からないとグルグル廻ることになる。分かってもしばらく監視が続く。怪しい者は殺されたと思われる。
 この2つの集落が四王子(しほっつぁん)の世話と守りをしていた。大谷集落の人々は親しみを込めて「しほっつぁん」と呼ぶ。
 四王子山に入る集落を二か所にし、しかも入山する者は集落の多くの家に監視されながら家の前を通らなければならない。その集落も外からは見えないようにしてある。大事な四王子を守り育てるならこの構造がベストである。寺を守るだけならここまでしない。このような細工をした山は全国でも倉吉市の四王寺山だけと思われる。「古代の山城」といっても過言ではない。
 「四王寺山に神武天皇の4兄弟がいたのではないか」と大谷集落の長老に質問してみるとよい。「そんなものはいなかった。四王寺があるから四王寺山という」と答えるはずである。おかしいと思いませんか。普通なら、「そうであったら、ここが全国的に知れ渡り有名になっていいのですが」と答えるはずである。全国から隠そうとしている。そう答えるように藤原氏に暗示をかけられていると思われる。同じように否定する人物は湯梨浜町の宮内にもいる。宮内の人物もそれ以上調べさせないよう話してくる。
3  鳥取県倉吉市の四王寺山の南には、伯耆国庁跡・法華寺畑遺跡・伯耆国分寺跡など8世紀に主要な建築物が建てられていた。鳥取県西部には、孝霊天皇の足跡が多く残っているにもかかわらず、鳥取県中部は伯耆国の中心として位置ずけられていた。それだけ大事なものがあったのである。
 この鳥取県倉吉市の四王寺山は9世紀に新羅の海賊から守るために四王寺を建てただけの山ではない。「しおうじ」は四王寺ではなく四王子であった。藤原氏は古事記の字を同じ発音の別の漢字に書き換えて日本書紀を作っている。同じ発音の別の漢字にあてるのが得意の藤原氏である。元は「子」とあったのを「寺」に書き換えている。
 筑前国の四王寺山は神武天皇たちがしばらくおり、天児屋根・建御雷神・事代主を祭っていたという伝承が残っている。鳥取県倉吉市の四王寺山から葦原中津国を見ると事代主は北栄町亀谷におり、建御雷神は北栄町妻波におり、天児屋根命は北栄町穂波にいた。神武天皇たちにとっては事代主も建御雷神も天児屋根も身近な存在であった。
4  鳥取県倉吉市の四王寺山のすぐ北には葦原中津国がある。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであった。神武天皇たちは日向から出発したという。この地は日当たりの良い地であると瓊々杵命がいい、瓊々杵命は日向之御子というあだ名まで付けられている。日向とは葦原中津国と四王寺山のことであり、神武天皇の四兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(日向)から九州の平定に出発した。九州平定後、船で倉吉市清谷(日下)に帰ってきたが、イツセが亡くなり、再び山陽に出て倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 藤原不比等は鳥取県倉吉市の四王寺山に神武天皇の四兄弟がいたことを知っていた。地名・伝承を宮崎県と奈良県に移し鳥取県倉吉市の四王寺山の伝承は二百年かけてきれいに消した。人的にも物的にもである。また鳥取県中部の各集落の調査を断念するよう仕組んである。
 おまけ
 宮崎県推薦の観光地。天真名井の滝

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 高千穂町にはほかにも天真名井がある。

 伯耆国(米子市淀江町)にも妻木晩田遺跡と稲吉角田遺跡の近くに天真名井がある。うけいが行われたのは、おそらくここである。三女神がいた米子市胸形にも近い。


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第七節 お盆のルーツは倭人が建国した新羅に有った [日向三代と神武天皇四兄弟]

   第七節 お盆のルーツは倭人が建国した新羅に有った。
1 『北史』『隋書』新羅伝
 『北史』『隋書』新羅伝には、「新羅の風俗、刑罰、祭祀、衣服、すべて高麗、百済と同じである。正月元旦ごとに皆で祝賀し、王は宴席を設けて来賓や官吏を招いて興じる。その日は太陽の神・月の神を祭祀して拝む。八月十五日には行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品とする。大事があれば官吏が集って詳しく協議して定める」とある。
2 『北史』『隋書』新羅伝では風俗、祭祀は高麗、百済と同じである、とするが正月・八月十五日の行事は高麗、百済にはないからあえて書いたものと解する。これにより盆・正月の行事は新羅がルーツであると思われる。
 初期の辰(秦)韓を造った徐福は道教の方士であったから、盆・正月は道教に基づいているのかもしれない。「旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる」(ウィキペディア)
 新羅がルーツの行事は厳かな行事である。八月十五日には官人たちに施しをする賞品のでる流鏑馬を行っていたようである。八月十五日の行事が僧侶たちに施しをして成仏できる、とする仏教のお盆になった。
 逆に高句麗・百済がルーツの行事は派手で賑やかな行事である。神楽・御田植祭(五月)・秋の収穫祭(十月)などは高句麗・百済がルーツの行事である。

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四王寺山周辺の遺跡地図 [日向三代と神武天皇四兄弟]

 四王寺山周辺の遺跡地図

四王寺山周辺の遺跡地図

1 四王寺山周辺の遺跡

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 鳥取県の遺跡・古墳の数は奈良県・兵庫県と比較されるほど多い。その中でも、鳥取県中部は県内の遺跡総数の3分の2を占め、特に四王寺山周辺は多い。おそらく、遺跡・古墳の密度は全国1位である。それはそうでしょう。蜘ヶ家山の島には縄文前期から猿田彦一族がおり、四王寺山には神倭磐余彦4兄弟がいたのだから。四王寺山の土塁上から紀元前100年頃(神武元年は紀元前60年)の鉄矛(国内最長)や住居跡が出土している。

 上神古墳群を見ると蜘ヶ家山(葛城山)に上がっているので黄泉平坂は蜘ヶ家山(葛城山)に上がっていたと推測できる。上神から男坂(急な坂)になる。不入岡から上神までが女坂(緩やかな坂)であった。遺跡・古墳の時代はご自分でお調べください。旧石器時代から古墳時代まであります。

2  主に奈良時代以降の遺跡107

 法華寺畑遺跡と伯耆国分寺と伯耆国庁は同じ頃(741年頃)に倭国(鳥取県中部)を乗っ取った亡命百済王朝(日本)によって造られた。法華寺畑遺跡は発掘された建物の規模と配置からすれば国分尼寺ではなく「国庁に関連した役所」とされる。公的見解は「全国に類例がなく何のための役所だったか判らない」とする。私見は「銘のない多くの墓がそばにあり処刑場跡」とする。

 上から下を通っているのは県道倉吉東伯線(151号線)である。県道151号線は倉吉から琴浦町伊勢野に通じている。天武天皇の大来皇女は泊瀬の斎宮(倉吉市駄経寺町の大御堂廃寺)から伊勢神宮(琴浦町伊勢野)まで行くのにこの県道151号線を通っている。亀谷集落から邇邇芸の御所(上種の大宮神社)に行くこともできる。県道151号線は古代の幹線道路であった。

3  四王寺山より大谷集落を俯瞰

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 土塁を通り抜けた先が法華寺畑遺跡になる。その右が伯耆国庁跡になる。このように四王寺山を意識して国庁・付属の役所が建っていた。

 四王寺山の麓に登山口を分からないように大谷集落をつくり、大谷集落を守るように3~4mの高さの土塁を造ったのは9世紀の四天王を祀る四王寺を守るためではなかった。四王寺山の大谷集落から出ている道路はまっすぐに福光集落に通じていた。その上に法華寺畑遺跡を造っている。従って大谷集落を外から判らないように守っている構造はまっすぐな道路とセットで、奈良時代以前から造られていた。

 後記ー土塁の上から紀元前100年頃(神武元年は紀元前60年)の鉄矛(国内最長)や住居跡が出土した。四王寺山全体の構造(北面と大谷の2集落からしか上がれないようにしてある構造)自体が紀元前100年頃すでに造られていた。

 大谷集落やその構造は奈良時代に藤原氏が造ったのではなく、倭国の彦火火出見(山幸彦)の宮として造られていた。また土塁は神倭磐余彦4兄弟を倉吉市富海にいた海幸彦(長髄彦=出雲族=準王一族)から守るために造られた。県道151号線を挟んで倭国と日本(亡命百済王朝)の遺跡に分かれる。

 以前は、彦火火出見と鵜草葺不合の二人は北栄町上種の邇邇芸の宮(大宮神社)に居候していたと思っていたが、鵜草葺不合(由緒・伝承がほとんど残っていない)は彦火火出見のあだ名であり、彦火火出見(山幸彦)は3年間、海幸彦から辰韓に逃げていたがまた帰ってきて四王寺山に宮を築いた。そして神倭磐余彦4兄弟(しおうじ)を生み育てた。

 藤原氏は同族の出雲族には寛容だが伯耆国にいた天皇の伝承は消し去ったので、大谷集落の誰も神倭磐余彦4兄弟について言う者はいない。藤原氏は鳥取県中部の多くの集落に本当の歴史を否定する者を有力者として配置している。

 「4人の王子がいたかもしれない」という大谷集落の若者はいたが、歴史に詳しいといわれる大谷集落の長老はそれを否定して「四天王を祀る四王寺があるから四王寺山という」といわれを述べた。


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第三節 伯耆国の四王寺山に行ってきました [日向三代と神武天皇四兄弟]



    伯耆国の四王寺山に行ってきました。
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 四王寺山より大谷集落を俯瞰する。土塁の向こうは県道になっているが、県道を通る者は大谷集落があることが判らない。一部崩されて田になっているが、大谷集落を人為的に隠しているとしか考えようがない。土塁の向こうに公開処刑場であった法華寺畑遺跡(741年頃)がある。亡命百済王朝(日本)は729年に倭国親王(日本は臭いものには蓋でしょ)の長屋王を暗殺し、734年に倉吉市の北野神社を皇居にしていた34代倭国王を殺害し倭国を乗っ取った。780年に新羅と国交を断絶している。四皇子峰などを宮崎県に移し終えてから、倉吉市の国庁には生き証人を殺す暗殺集団が来ていた。
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土塁の入り口です。
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 土塁を通って初めて四王寺山が見える。登山口はこの先を右に200mほど集落内を行ったところにある。大谷集落を通らないと四王寺山には上がれないようになっている。
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四王寺山の一番高い所です。ここから高見の見物をしていたのは誰でしょう。
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 高見神社跡より200mほど先にある護国山四王寺(九世紀に四天王を祀る)です。その裏に展望台がある。867年伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の5か国に対し、亡命百済王朝(日本)から四天王像各1鋪が下された。新羅からの船を監視し渡航させないためである。
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 丘陵地は蜘ヶ家山(葛城山)である。その下を通っているのは黄泉比良坂の延長線に造られた道路。それまでは、上神から蜘ヶ家山を通り原集落に到着していた。黄泉国(倉吉市中心市街地)から津(葦原中津国)へいたる道路である。左側が葦原中津国である。

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 展望台より日本海を望む。この日は中国のスモッグで先がかすんでいた。白くて大きな建物は、米を大量に貯蔵できるカントリーエレベーターです。その左が大島(秋津島)であり、葦原中津国の中心である。伊邪那岐・伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。神武天皇たちの四兄弟は葦原中津国を見下ろせる四王寺山にいた。
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 北側から見た四王寺山。手前が北面集落。この集落を通らなければ四王寺山に上がれないようになっている。

 この四王寺山は北栄町由良宿の高江神社で生まれた山幸彦(彦火火出見)の本拠地であった。山幸彦(彦火火出見)は海幸彦(長髄彦)と折り合いが悪く3年間辰韓に逃げていたが、父の邇邇芸が「この地はいと良き地なり」と言っていたので取り返しに帰ってきた。1日で北面に船を着けた。土塁の上から辰韓で作られた国内最長の弥生時代中期の鉄鉾が発掘された(中尾遺跡)。海幸彦(長髄彦)は饒速日の義理の兄として饒速日が降臨した倉吉市の哮峰(清熊稲荷神社の峰)の近くの倉吉市富海にいた。土塁は倉吉市富海を意識して造られている。鉄鉾は薄く作られており、敵もいたので祭祀道具ではなく実用品であった。

 行かれた人はここに神武天皇4兄弟がいたかどうか聞かないほうがいい。絶対にそうだとは言わない。これは、天武天皇がいた賀茂神社や孝霊天皇一族がいた倭文神社でも同じである。聞けば必ず否定する。聞く耳ももたない。藤原氏は鳥取県中部に重点をおいて、否定する者を配置している。


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豊玉毘売命・玉依毘売命は辰韓出身であった。海神(綿津見の大神)は船頭の頭領であり慶州近くの港にいた [日向三代と神武天皇四兄弟]

1  豊玉毘売命・玉依毘売命を記載する古事記の抜粋
(1) 塩土の神は、无間勝間の小船を作り、御子を乗せて、「私がこの舟を押し流しますから、そのまましばらく行きなさい。快適に進める海路があるでしょう。その海の道に沿って行くと、魚の鱗のように作った宮殿があります。それは海神の宮です。その宮殿にたどり着くと、門のところに湯津香木があります。その木の上に登っていたら、海神の娘に会って、彼女がはからってくれるでしょう」と教えた。
 彦火々出見尊は香木に登って座っていた。豊玉毘売は外へ出て火遠理命を見ると、すっかり一目惚れしてしまった。豊玉毘売と彦火々出見尊は互いに視線を交わし、思いは双方同じだった。豊玉毘売は父に「私の門のところに、とても美しく立派な殿方がいます」と言った。すると海神は自ら出て彦火々出見尊を見ると、「この人は、天津日高の御子で、虚空津日高でいらっしゃるぞ」と言い、宮の中に連れて入り、娘の豊玉毘売を彦火々出見尊に娶(めあわ)せた。その後三年になるまで、その国に留まった。
 鯛の喉を調べてみると、釣り針があった。それを取り出してきれいに洗い、彦火々出見尊に奉った。綿津見の大神は海の鰐たちをすべて呼び集め、「いま天津日高の御子、虚空津日高が地上の国に帰ろうとしておられる。お前たちの中で、だれが御子を何日で送って還ってこられるか」と尋ねた。一尋鰐は「私は一日で御子を送って帰ってこられます」と言った。そこでその一尋鰐に、「ではお前が御子を送れ」と命じ、その首に御子を乗せて送り出した。すると本当に言った通り、一日で送った。その鰐が帰ろうとしたとき、御子は持っていた紐小刀を鰐の首に付けて送り返した。その一尋鰐を、今は佐比持神と呼ぶ。
(2) ある日豊玉毘売の命が自分から穂々手見命のところへやって来て、「私は以前からあなたの御子を妊娠していたけれど、もうお産の時になったの。でも天神の子を海原で生むのはよくないことだわ。それでこちらへ来たのよ」と言った。そこですぐに海辺の渚に鵜の羽根で屋根を葺いた産屋を造った。ところがその産屋の屋根をまだ葺き終えないうちに、急に産気づき、産屋に入った。まさに子供が生まれようとするとき、彼女は夫に向かって「他国の人は、みな臨産の時に、本国の姿になって子を生むと言うわ。私も今元の姿になっているの。お願いだから見ないでね」と言った。彦火々出見尊はその言葉を奇妙に思って、子を生んでいる最中の姿を垣間見ると、毘売は八尋鰐の姿になって這い回っていた。穂々手見命はこれを見て驚き恐れて、逃げ去った。豊玉毘売命は彼がのぞいて見たことを知り、恥ずかしいと思って、生んだ子たちを放置し、「私はこれまで、海の道を通って(子育てに)通うつもりだったのに、生んでいるところを見られたのは、恥ずかしいことだわ」と言って、海の通い路を鎖して帰って行ってしまった。その生んだ子の名を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命という。
(3) 豊玉毘売命は恋しさに耐えかねて、姉に代わって御子を育てていた玉依姫に託して、歌を送った。この天津日高波限建鵜葺草葺不合命が、その叔母である玉依毘売命を妻にして、生んだ子は五瀬命。次に稲氷命。次に御毛沼命。次に若御毛沼命、またの名は豊御毛沼命、また神倭伊波禮毘古命とも言う。この御毛沼命は、波の穂を踏んで、常世の国に行ってしまった。稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。
 
2 私見
(1) 1の(2)は京都でひまを持て余していた藤原氏が改ざん挿入したものと思われる。男性はこういう状況になれば身につまされるため、我が事のように思い、作り話だとは思わない。だから改ざん挿入説は出てこなかった。豊玉毘売は木花之佐久夜毘売であったという説がある。1の(2)は改ざん挿入されている。
 鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった。彦火々出見(鵜葺草葺不合)は倉吉市の四王寺山に宮を定めた。神武天皇の4兄弟は四王寺山で育てられた。「鵜葺草葺不合は彦火々出見のあだ名であった」を参照されたし。
(2) 塩土の神が小舟を出したところは対馬と思われる。「快適に進める海路」とは対馬海流と思われる。
(3) 稲氷命は母の国だからというので、海原に入ってしまった。「海原に入ってしまった」の「海原」とは辰韓の「海原」(海抜4m~20mの平地)のことである。辰韓、慶州のあたりには徐福一行の子孫が残っていたはずである。玉依毘売命は辰韓に残っていた徐福一行の子孫である可能性が高い。綿津見の大神は徐福一行を伯州へ送った船頭の子孫と思われる。
 「天神の子を海原で生むのはよくないことだわ」と豊玉毘売命が言ったが、ここでも「海原」とは辰韓の海原(海抜4m~20mの平地)のことである。決して海中の竜宮城のことではない。
(4) 1の(1)にある「鰐」とは船の船頭のことである。彦火々出見は到着してからチップを渡しているので、綿津見は海上タクシーであった。竜王神社は綿津見神と住吉神を祀る神社である。「鰐=竜」という説がある。一尋鰐、八尋鰐は船の大きさであった。
 辰韓の慶州近くの港から伯州(倉吉市北面)に行くのに一日で到着するのは早い。直線で400kmくらいである。24時間で到着しようと思えば毎時16.6kmで進まなければならない。対馬海流は普通は毎時2.8km~4.3kmくらいであるから、海流を差し引いても毎時12.3Km~13.8kmのスピードで漕がなければならない。一日で到着するのは大変であるが速い海流に乗れば不可能ではない。
  火火出見が行ったのは島根県の隠岐の島とする説があるが、倭国(鳥取県中部)と隠岐の島の距離は90km程度であり24時間かかってやっと到着するような距離ではない。また、新羅を建国した稲氷命は母の国に行った。稲氷命の母は玉依姫であり、玉依姫の出身国は稲氷命が建国した新羅(辰韓)であった。
 
3 参考
 シーカヤックレースの上位入賞者達は、時速9~10km位を長時間維持するという。
 シーカヤックで大韓海峡を航海した人は「通常大韓海峡では、対馬海流は1.5ノット(時速2.8km)~ 2.3ノット(時速4.3km)です。ここも、海流と潮流が重なるとたいへんです。3.7ノット(時速6.8km)の時がありました」とする。時速6.8kmならば毎時9.8kmで漕げばよく、不可能ではない。


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