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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

神武天皇たちは妻木晩田を開いた [日向三代と神武天皇四兄弟]

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1 糺(ただす)神社

 明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。


2 妻木晩田遺跡・松尾頭地区

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 糺(ただす)神社から南西3kmのところに妻木晩田遺跡・松尾頭地区があり、紀元前100年頃の竪穴住居跡(SI100)や土坑(SK161)が発掘された。


3 線刻土器

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 妻木晩田遺跡のパンフレットより

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 SK179で発掘された線刻土器
 SK179は紀元前100年頃のSK161のすぐそばにあり、この線刻土器も紀元前100年頃の線刻土器と思われる。

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 「妻木晩田遺跡で発見された線刻土器はこれで4点目であり、そのすべてが松尾頭地区で出土していることは、この地区の性格を考えるうえで重要である」とある。この4点とも祭祀に関係した土器であり、神武天皇たち(紀元前100年頃)に関係していると思われる。


4 妻木晩田遺跡・松尾頭地区の祭殿

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 「このひさし付きの建物はむらのまつりを執り行った祭殿と考えられている」とある。


5 私見
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)たちは殷王朝末裔である出雲族(準王一族)の銅鐸祭祀を線刻土器の祭祀に変えさせよう(ただす)としていた。その最初の拠点が妻木晩田遺跡の松尾頭地区と思われる。しかし、この地では線刻土器祭祀へ変更させる(ただす)ことはできなかった。
 神武天皇たちは全国に散っていた出雲族(準王一族)の祭祀を変更させるための巡行に出なければならなかった。神武東征の原型は出雲族(蝦夷)の平定であった。
 出雲族が妻木晩田に住み始めたのは出雲族が平定されて神武天皇が即位(紀元前60年)した後であった。しかし、いつまた反乱するかわからない爆弾を抱えているような状態であった。実際、孝霊天皇の時代(120年~211年)に出雲族は出雲族の姫を殺したとして反乱(青谷上寺地遺跡に代表される倭国大乱)を起こした。

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 松尾頭地区の南西2.4kmで出土した稲吉角田遺跡の絵画土器も紀元前100年頃であり、神武天皇たちが作ったと思われる。
 また、鳥取県大山町長田集落の造りは倉吉市大谷集落の造りと似ており、集落にだいぶ近づかないと家並みが見えない。長田集落も大谷集落と同じく神武天皇の時代(紀元前100年頃)に造られたと思われる。
 長田集落も含めて松尾頭地区より孝霊山側は天孫族の領域であり、松尾頭地区より日本海側は出雲族の領域であったと思われる。同じように鳥取県中部でも四王寺山(鵜草葺不合=火火出見と玉依姫の宮)と土下山(鳥見=出雲族の白庭山、後に天の香久山)でも天孫族と出雲族は住み分けをしていた。四王寺山の前に不入岡(岡にはいるべからず)という地名がある。



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