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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて
 1 奈良歴史漫歩「三輪山祭祀の謎」橋川紀夫  より
  三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も多量に出土する。
 三輪王朝は古墳時代前期にあたるが、禁足地および周辺山麓からはこの時期の遺物は出土していない。三輪王朝での三輪祭祀の場所について示唆する記述が「崇神紀」にある。天皇が卜占する時、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸したとある。また、太田田根子を謁見した時、諸王・卿・八十諸部を引き連れて神浅茅原に出でましたという。神浅茅原は多くの人々が集えるほどの開けた場所のように思える。山麓であっても山全体を眺めわたせるほど離れた場所で祭はとり行われたのであろうか。
 これですぐ思い浮かぶのは巻向遺跡である。遺跡からは祭祀に用いられた多量の遺物が出土している。遺跡は古墳時代前期をもって途絶えるが、禁足地周辺の遺物が中期から後期を示すのと符合して、三輪山周辺をめぐる祭祀のあり方が4世紀末を境にして大きく変わったことを暗示する。
 『日本書紀』は、天照大神を始祖とする万世一系の天皇というイデオロギーでもって貫かれる。そのため幾重にもフィックションが張り巡らされた。三輪山祭祀をめぐる『書紀』の記述が謎めいているのも何かが隠されているからだ。王朝の交代は仮説であるが、謎を解くひとつの手がかりとなるのではないだろうか。

2 私見
 健全な考えだと思われるので掲載させてもらいました。奈良の三輪山からは4世紀前半以前の祭祀遺跡は見つかっていない。崇神天皇(在位186年~230年)垂仁天皇(在位230年~260年)景行天皇(在位260年~290年)の在位期間は3世紀である。この頃、奈良の三輪山では祭祀は行われてはおらずただの山であった。奈良では纏向に鳥羽市安楽島町伊射波神社にいた卑弥呼を呼んで祭祀を行っていたものと思われる。
 卑弥呼・崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代の三輪山といえば、天忍穂耳(大物主)のいた鳥取県北栄町下神の三輪山のことである。大田田根子は鳥取県神社誌では西部の4神社に大田命として祀られている。鳥取県西部は天忍穂耳(大物主)が大陸に行く途中に宿泊されたところであり、子孫が居ても不思議ではない。崇神天皇(吉備津彦)も倭の大乱のときに鳥取県西部はよく知っており、探し出すのに難しくはなかった。神浅茅原も北栄町の三輪山の近くにあったものと思われる。この頃の奈良での祭祀は纏向の地で行われており、のちの三輪山での祭祀はまだ行われていなかった。
 崇神天皇は津山から奥津人形峠を通られて東郷池の長和田の皇居や北栄町下神(松神)の神浅茅原に帰ってきて大田田根子に会われたり、津山から奈良の纏向に行かれ、卑弥呼の祭祀に立ち会われたり、活発に活動しておられた。


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