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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた。

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 山陰型甑形土器は愛媛県でも発掘されているが、このことは 楽楽福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒が事実であったことを証明するものである。

1  楽楽福神社 鳥取県日野郡日南町宮内 由緒(昭和9年鳥取県神社誌より抜粋)
 彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し。社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し。若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)。但し、豫章記(伊豫国河野家譜) に孝霊天皇孝元天皇此孝元天皇御弟伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女孝霊第二皇子御諱彦狭島命)。「此頃南蠻戎動令蜂起之間、此御子当国下給仍西南藩屏将軍云、即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々」此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし。此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり。彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也。

2  愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」[愛媛県史]伊予の祭祀遺跡より
 宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。

3 私見
 山陰型甑形土器は暖房のために使われていたものと思われるが、遠征時の寒さを凌ぐために倭健命や崇神天皇によって考案されたものである。山陰、特に鳥取県中心に広がっているから初期ヤマト朝廷が鳥取県にあったことがわかる。
  楽楽福神社由緒では歯黒皇子が彦狭嶋命か稚武彦命かで問題視しているが、いずれにしても歯黒皇子は倭の大乱の時に父の孝霊天皇と一緒に鳥取県日南町宮内におられたのである。後に青銅器文化の一族を平定するために伊予国に行かれた。宮前川遺跡はその時の遺跡である。


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