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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。

1 鳥取県神社誌昭和9年刊より

 大神山神社 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)

 由緒 「神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり」とある。


2 私見


(1)大神山神社の由緒にある「磯城の瑞垣」とは崇神天皇の皇居である。古い文献伝承があったのだろうが藤原氏を恐れて崇神天皇とは書かずに崇神天皇を連想させる「磯城の瑞垣」と書き残した。大山中腹の現今の奥の宮の所在地に神南備を創建したのは崇神天皇(紀元155年~258年)である。崇神天皇と姉の卑弥呼が全国の神社のもとを創ったのであるから、皇居が鳥取県中部(湯梨浜町長和田集落)にあった崇神天皇は真っ先に大神山神社を創建した。

(2) 崇神天皇は古くから由緒のあった全国各地に神社を創建していったが大神山神社の地にはどんな由緒があったのだろうか。

  史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山列伝 第五十八に「私(徐福)は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました」とある。

 米子市陰田町に到着した徐福は東南の鳥取県大山(蓬莱山)の大神山神社の地に連れていかれた。大神(伊邪那岐)の宮殿は鳥取県大山の大神山神社の地にあった。だから崇神天皇が創建した時の大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。

(3)大神山神社の創建時の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であったがどうして大国主に変わったのであろうか。

 734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は各地で統一に向けての武力行使をしていた。隼人の乱(720年)も「乱」などというが亡命百済王朝が政権を奪うための前準備であった。ウィキペディアでは「隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である」とするが、間違いである。八百年の間ヤマト王権(鳥取県中部)に属していた隼人が亡命百済王朝の支配に対して抵抗したということである。また、奈良時代、土佐王の池田氏が助けを求めて鳥取県琴浦町にあった天照皇大神宮に来たことが方見神社の由緒に残っている。

 大神山神社の現宮司の先祖は奈良時代に倉吉市の法華寺畑遺跡で行われていた血脈狩りの公開処刑を見ていた。だから天皇家に対する恐怖心を人間天皇になった今まで抱いてきた。大神山神社の宮司はアジスキタカヒコネの子孫であり、このことは現宮司まで一子相伝で語り継がれてきたそうである。

 十数系統あった大国主の子孫の多くは奈良時代から平安時代にかけて血脈狩りにあった。それは734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)によるものであり、それまでの天皇家は大国主の子孫を大事にしていた。アジスキタカヒコネは倉吉市灘手地区の鋤集落にいたし、天若比古は倉吉市寺谷集落の矢の宮神社にいた。だから、奈良に行ってはいない。もちろん出雲大社の大国主は17代続いた出雲族の王の代名詞であり一個人の名前ではない。

 大神山神社の現宮司が真の大国主の直系の子孫であるならあえて異議を唱えないが、鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)であり、734年までは大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。

(4)私の先祖も法華寺畑遺跡で殺されたのか「夢の中でその時の映像が映し出される」。それでも一族は20数軒残っているので良しとしよう。大神山神社の現宮司と同じく私の家系も一子相伝であった。故父は「神武天皇の道案内をしたのでこの名前をもらった」と言っていた。神武天皇の道案内をしたのは神武天皇の一番の家来の「道臣」である。私の姓には始めに「道」が付いている。藤原氏は私の家系抹消もしたかったのだろう。しかし、大神山神社の現宮司と私の先祖も生き延びた。だから、大山の大神山神社の祭神を現宮司の先祖ではなかった、とは言いづらい。しかし、現天皇家が政権をとる奈良時代(734年)までは伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)が祀られていた。

 


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