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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた [神武天皇と欠史八代]

 因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた。


1 孝霊天皇が土蜘蛛を襲ったのは大分県(碩田国)ではなく鳥取県(因幡国)であった。

 日本書紀・景行天皇十二年・「天皇は碩田国(大分県)に着かれた。・・・天皇は好ましくないと思われ、進んで行かれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮をたててお住みになった。群臣と謀って、「いま多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もしわが兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっとわざわいをなすだろう」といわれた。椿の木を取って椎に造り、これを武器とされた。強い兵をえらんで椎を授け、山をうがち草をはらって、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川の上に破りことごとくその仲間を殺した。血は流れて踝までつかった。時の人は、つばきの椎を作ったところをつばき市といい、また血のながれたところを血田といった。また打猿を討とうとして、禰疑山を越えた。そのとき、敵の射る矢が、横の山から飛んでき、降る雨のようであった。天皇は城原に帰り、占いをして川のほとりに陣をおかれた」とある。

※ 私見

 倭建命は若日子建吉備津日子であり開化天皇であった。倭建命は景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子であり倭国大乱を孝霊天皇とともに戦っていた。藤原氏は主人公も舞台も変えて日本書紀を創っている。以下の神社の由緒と付合するので孝霊天皇は因幡(鳥取県東部)で土蜘蛛(出雲族)と戦っていた。

(1)稲葉神社  現住所   鳥取市立川町5-115

 由緒「これ武内大臣当国下向の時三韓退治の御幡をこの地に収め祭らる。これによって、国名稲葉の字を因幡と改むという」

※ 私見

 因幡は古代、稲葉であった。「稲葉川」とは因幡川であった。三韓退治(任那を始めて創った)をしたのは倭建命と卑弥呼であり、武内大臣ではない。この由緒は八幡など幡の好きな神社庁が創った。

(2)久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947

 由緒 因幡誌に「岩田庄谷一木村にあり。古跡紛乱なし。日本紀・景行天皇・12年の条下に、来田見の邑に留めて宮室を権興しこれに居る、と見えたれば、これ来田見の古地なる疑いなし。景行天皇を祀れるか、いま九田伊大明神と称するは里村の訛りなり」とある。

※ 私見

 来田見邑は因幡国にあった。久多美神社は出雲と大阪に創ってあるが来田見邑は現在のところ出雲と大阪に創ってない。指摘したから創るかもしれないが。来田見邑に宮室を権興したのは景行天皇ではなく孝霊天皇である。

(3)都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511  

 由緒 世俗呼んで市大明神(また大智大明神)と称す。因幡誌に曰く「都波只知上神社は八日市の西8町獨活谷の口にあり、この地は城原と称し、また海柘榴市という。景行天皇紀に「・・・」(上記)とある。即ち、この地は海石榴市の神の鎮座地にして、その祀るところ景行天皇・日本武尊なり。都波只知(つばいち)は海石榴市(つばいち)のかな書きにして、土人今市大明神というは故実の存するところにして殊勝というべし」と記せり。

※ 私見 

 日本書紀・景行天皇十二年の土蜘蛛との闘いの舞台は大分県(碩田国)ではなく鳥取県東部(因幡国)であった。天皇は景行天皇ではなく孝霊天皇であった。孝霊天皇は10年疎開していた但馬から因幡国にきて出雲族(土蜘蛛)と戦い、鳥取県中部(倭国)を取り戻してから、鳥取県西部(西伯郡・日野郡)に行って出雲族(鬼)と戦った。鳥取県西部では高杉神社を本拠地として出雲族の本拠地の妻木晩田を攻め、手間山に逃げ込んだ出雲族を待伏せし、降ってきたところを捕らえた。その後、溝口町・日南町・出雲を平定し倭国大乱は終結した。倭国大乱は鳥取県を中心にした乱であった。

 藤原氏(神社庁)は倭国が鳥取県中部であることを隠し、都は大和(奈良)にあったと思わせるために舞台を大分県などに移した。


2 武王大明神の「武王」とは建御雷神のことか。

 鳥取県神社誌の因幡国には明治維新まで武王大明神と称していた神社が9神社あり、祭神は建御雷神となっている。建御雷神は葦原中津国にまっすぐ行けばよいので、9か所を転々とはしない。9か所を転々とする必要があったのは、倭国大乱を戦っていた倭建命である。

 また、武王の「王」とは天皇のことであり、建御雷神は天皇ではない。倭建命はのちに天皇になっているし、建の字は武とも書く。武王とは倭武天皇のことであった。

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(1)意非神社  現住所  八頭郡若桜町屋堂羅1

 意非の読みは近辺に大炊村があるので大炊だろう。社伝に曰く「形代白羽矢なり、里諺に当社始め隣村長砂一宮谷にあり。武内宿禰(倭建命)来征の時、その地より矢を放って曰く「この矢の落ちるところに神殿を遷すべしと。因って今いう矢落谷に遷す。この説によって考えるに矢堂羅は即ち矢通りのかな書きなるべし」と見え。

※ 私見

 これは倭国大乱の時であり、矢を放ったのは倭建命である。藤原氏は神社庁と組んで卑弥呼と倭建命の巡行を神功皇后と武内宿禰の巡行に替えている。

(2)武王大明神と称していた神社

古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657

 祭神  建御雷神

安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町

 祭神  建御雷神

神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675

 祭神  建御雷神

面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192

 祭神  建御雷神

禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227

 祭神  素戔嗚

細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350

 祭神  建御雷神

恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95

 祭神  武王大明神

杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番

 祭神  建御雷神

宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441

 祭神  建御雷神

※ 私見

 武王とは建御雷神ではなく倭武天皇(王)といわれた倭建命であった。孝霊天皇とともに因幡国(鳥取県東部)を平定した。

 洗足山には鬼(出雲族)がいたので鳥取市用瀬町赤波の宮小谷神社のあたりは激しい攻防があったことは容易に察しが付く。


3 倭建命(若建日子吉備津日子)は吉備津彦(大吉備津日子)・武牟口命・橘入来宿祢らとともに因幡国・伯耆国を平定した。

(1)虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967

 虫井神社由緒書には「当神社創立は景行天皇の時代という。日本国内が未だ平定されていない頃、大呂村夷住山に居を構え、広く因幡地方を支配していた荒海・里人・都都良麻の三兄弟の内、荒海が日本武尊熊襲征伐(九州平定)のみぎり、その先鋒として西征の途に就き、当地に来る武牟口命によって鎮撫された時、宝剣・弓矢を夷住山に祀り三社を建立、中社を虫井神(妙見社)、左社を三瀧神(蔵王権現)、右社を荒海(荒海大明神)として奉斎したのを起元とする。...」と記してあります。

(2)多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387

 特選神名牒には「今按ずるに社伝祭神大穴牟遅神事代主尊とあれど伊福部系図に大己貴命十四世孫武牟口命という人日本武尊に従って本国の賊荒海を平定したることみえたり。これによるに疑うらくは、この武牟口命を祀れるにあらざるか。この武牟口命を大己貴命の後と伝えたるをもって大穴牟遅神事代主尊と伝えるならん。姑附て考に備なう」とある。

(3)因幡国伊福部氏の系図の第十四 武牟口命(たけむくちのみこと)について

 伊香色雄命の子。母は布斗姫(ふとひめ)と曰ふ。

 此れ武牟口命は、「纏向日代宮に御宇大足彦忍代別天皇」(史実は孝霊天皇)の皇子日本武尊(倭建命)に陪り従ひて、吉備彦命(大吉備津日子)・橘入来宿祢等と与(とも)に、相ひ共に征西の勅を奉りて、去り行きぬ。時に或る人、針磨国(?)より言して曰はく。「稲葉の夷住山に住める荒海、朝命に乖き違いて、当に征討すべし」と。時に日本武尊(倭建命)、詔して曰はく、「汝、武牟口宿祢は、退き行きて伏せ平ぐのみ。吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」。時に詔を奉りて行くに、荒海・里人・都都良麻の三兄弟、参り迎へて槻弓八つ枝を献る。

※ 私見 

 大国主は素戔嗚の子であり倭建命の始祖は天照大御神だから同族であり、出雲族ではない。大国主の子孫(武牟口命)と倭建命が協力して出雲族を平定していたとしてもおかしくない。

 「吾は筑紫を平げて、背の方より将に廻り会はんとす」とある。伊邪那岐は「筑紫の日向の橘の小門の淡き原(北栄町原集落)」で禊をしたのだから、「筑紫」はかなり広範囲の地域であり、黄泉平坂のある鳥取県中部にあった。

 橘入来宿祢の「橘」とは「橘」の花の形をしていた葦原中津(北栄町)である。葦原中津(小さな湾)に船で入って来るのは韓国(朝鮮半島)からである。橘入来宿祢は韓国(新羅)から援軍としてやってきた。

 倭建命は鳥取県中部(倭国)を平定して、(〇〇川の)背(瀬)の方より廻って武牟口命と会った。藤原氏は稗田阿礼とは逆で特定される地名は消している。倭建命も神武天皇の子孫であり戦い方を踏襲しているから、南の津山に出て蒜山から筑紫(鳥取県中部)を平定するために降りてきた。関金の矢筈ヶ山と矢止荒神に残る伝承はその時の伝承と思われる。



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