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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

溝口の鬼の館に行ってきました [倭国大乱の原因]

 溝口の鬼の館に行ってきました。
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1 鬼の館の説明文より
《孝霊天皇は、鬼住山の南の笹苞山に陣を敷いて、鬼の館を見下ろしました。人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出せば、弟の乙牛蟹が出てきました。大矢口命が矢を射ると見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまいました。しかし、兄の大牛蟹は手下を連ねて荒々しく手向かってきてなかなか降参しません。ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました。鬼は逃げ散り、天皇は一兵も失わずに勝ちました。麓に逃げた鬼は蟹のようにはいつくばって、「降参します。これからは天皇の配下となって北を守らせてください」と願ったので、天皇は、「よしお前の力をもって北を守れ」とお許しになりました。》
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鬼住山です。
 下の日野川との間を通る旅人を襲っていたのだろう。天孫族は天照大神の時代からこのルートを通って日南町広島北九州大陸に行っていた。
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笹苞山です。
 孝霊天皇はこの山に陣取って天津神のお告げを聞いた。そのお告げは卑弥呼(稚日女命)から出たものと思われる。

2 稚日女命(卑弥呼)の動き
 卑弥呼は吉備津彦の皇軍とともに移動していたのだろう。移動の順番は正確ではないが、讃岐を出られてからは、以下の神社の所在地あたりを転々と移動していたものと思われる。石蟹魁師荒仁は石蟹(新見市石蟹)で新見市に拠点を置いていた。稚日女命(卑弥呼)は新見市を取り巻くように移動している。
1 岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663  大森神社

2 岡山県浅口郡金光町大字下竹736  大森神社

3 岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社

4 岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
5 岡山県津山市綾部1086  綾部神社
6 岡山県津山市沼430  齋神社
7 岡山県苫田郡奥津町久田下原43  久田神社

8 岡山県真庭郡久世町大字久世948  朝日神社
9 岡山県真庭郡八束村中福田392  福田神社

10 岡山県真庭郡川上村西茅部1501  茅部神社

3 大山周辺の卑弥呼と父の孝霊天皇

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 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
(9)安屋咩神社  安来市赤江町400 
(神)倭姫(比女)命
(10)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(11)高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
(12)蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
 若日孁神
(13)五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
(14)福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田392  

 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(15)倭文神社 湯梨浜町宮内
(16)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
(17)楽楽福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
      現住所 西伯郡南部町東上
(18)楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
(19)楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
(20)山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
     現住所 日野郡江府町杼原
(21)佐々布久神社 
     現住所 安来市広瀬町石原

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※ 私見

 稚日女命と孝霊天皇は鳥取県西部(西伯郡と日野郡)に足跡を多く残していることが判る。隣り合う出雲の勢力(鬼・土蜘蛛などと呼ばれていた)と戦っていたからである。

 鬼住山を攻めるとき、孝霊天皇と稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命)は鬼住山の奥の日光村にいた。

 孝霊天皇は日光村栃原におり、稚日女命(孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命)は日光村吉原にいた。これは鬼住山の鬼を笹苞山から笹の葉を吹いて成敗するときの陣形と思われる。孝霊天皇は天津神のお告げを聞いたが、天津神とは後方の吉原にいた倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)であった。

 日光村周辺には大字に大が付く地名が多い。京都の藤原氏の流れが作った伯耆誌には「大を王と読み替えるとは何事だ」とするが、これほど密集していると大は王(山田神社にいた孝霊天皇)ではないかと思われる。





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