SSブログ
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

殷王朝(商)について [倭国大乱の原因]

 殷王朝(商)について
 

1 組織体制

 組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域であり、大邑は王城、族邑は血統単位の集落である。殷王朝初期の鄭州王城には、大邑内に祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

 

2 青銅器

 殷時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、大型の方鼎は、重量が875kg、高さ1.3mもあった。


3 酒

 祭祀権と王権が一体であった殷王朝では、殷人は青銅の神像が置かれた神廟で、火を焚き、生贄を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞いた。殷の青銅器には、神廟の跡と見られるところから出土した酒器と神像が多いのは、この物的証拠である。


4 生贄制度 

 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は1万4000体に及ぶ。


5 私見

 秦の始皇帝が中国を統一したころ(紀元前221年)には、生贄の風習は衰退した。中国での生贄の風習は紀元前2世紀までにほぼ消滅した。

 しかし、殷王朝の末裔準王は紀元前194年にヤマトにわたってきている可能性が高い。その地は吉野ヶ里であり、出雲であった。どちらも青銅器文化であり、全国に展開していったが、のちに卑弥呼を擁する邪馬台国軍(ヤマト軍と同じ)によって平定された。弥生時代の終焉をもって青銅器文化も消滅する。準王はヤマトにおいて殷王朝の再興をはかったが叶わなかった(紀元260年頃の三国志魏略)。

 しかし、半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)はのちに(642年)倭国に渡り殷王朝が滅ぼされた太公望の六韜に基づいて倭国を乗っ取り(734年)、国号を日本と命名した。首を切ったり、近親相姦をおかしいと思わない点で藤原氏と殷王朝末裔の準王一族は同じ一族である。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。