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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

初期倭朝廷(卑弥呼の邪馬台国も含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは敵対していた [倭国大乱の原因]

 初期倭朝廷(卑弥呼の邪馬台国も含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは敵対していた。
 
1 銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期倭朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一されるまで、対立していた。
 青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族である。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生前期(紀元前195年)からである。
 彼らは、鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた。日南町の楽楽福神社の伝承に残る河童たちも降参した後の青銅器文化の一族を揶揄して伝えられたものと思われる。
 
2 彼らは弥生の早い時期から全国に展開したが、天照大神から第10代崇神天皇まで、初期ヤマト朝廷は鳥取県中部を拠点として北九州に行き辰韓(新羅)に渡り大陸との交易をはかってきた。神武天皇と戦った長髄彦も青銅器文化の一族である。
 後漢書には107年に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたとある。第7代孝霊天皇は120年頃の生まれであるから、帥升とは第6代孝安天皇の中国名と思われる。孝霊天皇の父の代から中国の皇帝に朝貢する途中の朝鮮半島で青銅器文化の一族が襲ってきた。かれらは半島に残っていた青銅器文化の一族と思われる。かれらを捕らえて中国の皇帝に差し出したのが生口である。朝鮮半島では捕虜のことを生口と呼んでいた。
 
3 第7代孝霊天皇の時に、出雲神族の王家の娘を殺したとして湯梨浜町宮内の皇居を襲ってきたため、11年間天日矛一族のいる但馬に疎開していたが、いよいよ家族総出で青銅器文化の一族を成敗することになった。卑弥呼・大吉備津彦(崇神天皇)・若日建吉備津日子(倭健命・開化天皇)の活躍で東は岩手県、西は九州天草まで平定し全国を統一した。崇神天皇は岡山県津山市中山神社に拠点を置き、卑弥呼は志摩国の加布良古崎を拠点とした。崇神天皇(在位188年~230年)の頃から全国の者が集まるための祭祀場を奈良纒向に造り始めた。卑弥呼を守るため、卑弥呼の居所から離れたところに祭祀場を造る必要があった。

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