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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

草薙剣(八俣大蛇が持っていた)を模して作られたと思われる稲荷山古墳出土の鉄剣と秦兵馬俑一号坑出土の青銅剣 [素戔嗚命]

 草薙剣(八俣大蛇が持っていた)を模して作られたと思われる稲荷山古墳出土の鉄剣と秦兵馬俑一号坑出土の青銅剣 

 形状比較のため写真を借用しました。

1 稲荷山古墳 鉄剣 レプリカ
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稲荷山古墳出土の鉄剣は八俣大蛇が持っていた草薙剣を模して作ったものだと思われる。製作は471年という説がある。

2 兵馬俑博物館  秦兵馬俑一号坑出土 秦青銅剣

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クロームメッキが施されているため今でも銀色に輝いている。

 

3  稲荷山古墳出土の鉄剣のほうが少し短いだけで形状は両刃でありほぼ同じである。
 400年経っても錆びずに短時間で広範囲の草が刈れるのは、始皇帝が持っていた青銅剣しかないと思われる。2200年経った今でも十数枚の紙が切れるそうである。
 八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。彼らは辰韓(朝鮮半島の東側)から出航して鳥取県湯梨浜町の東郷池に到着し、上陸して三朝町山田(ヤマタ)に住んでいた。彼らは9年後に素戔嗚が現れるまで、毎年娘をさらった。稲田姫が8人目の娘であった。


4 ちなみに、素戔嗚が蒜山高天原に上がってきたのは、三朝町山田で始皇帝の家来たちを発見したので、天照大神に報告と忠告に上がってきたのではないだろうか。「なぜ、始皇帝に報告しないのか」と忠告したと思われる。天照大神と櫛稲田姫のためにも素戔嗚は始皇帝の家来たちを成敗する必要があった。始皇帝の家来たちに濃い酒を飲ませて成敗してから、始皇帝陵から見つかったのと同じ剣を持って天照大神に献上したが、天照大神はその剣の存在を知っていたから、なにも言わずに受け取っている。徐福もその剣の存在を知っているから、黙って受け取る。古事記には「素戔嗚はこの太刀を取り、『これは不思議なものだ』と思ったので、天照大神に報告した」と書かれているだけで天照大神の反応が書いてない。徐福(天照大神)は事情を知っているから、何も言わなかったと思われる。曲がっても元に戻るから「不思議なもの」(形状記憶合金)なのである。それ以来、天叢雲剣として天皇家の三種の神器となる。


5 梅宮大社の神職者で学者玉木正英の「玉籤集」裏書にある記載は、綱吉の時代、熱田神宮で「布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかった」とある。

菖蒲の葉.jpg

 形状と白っぽさは秦兵馬俑一号坑出土のクロームメッキされた青銅剣と同じである。


6 「天叢雲剣は天武天皇に崇った」という日本書紀の記述は天武天皇の暗殺を隠ぺいするための不比等の作り話である。天武天皇は天照大神の正統な承継者である。テロでそれ以前の天照大神から続く政権を奪い取った天智こそ崇られてもおかしくないのであり、天武天皇が崇られることはない。天武天皇は天叢雲剣に崇られて死んだのではなく、不比等に頼まれた持統によって毒殺された。毒殺した張本人の不比等が本当のことを日本書紀に書くわけがない。天武天皇が死んだ原因をなぜわざわざ書く必要があったのか。当時でも疑う者がいたからと思われる。




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