千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
「八雲立つ、出雲八重垣 、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」について [素戔嗚命]
倉吉市小鴨川土手より南を見る。正面は打吹山。
右に遡ると矢送村。左に下ると長瀬高浜に至る。
倉吉市小鴨川土手より北を見る。正面は向山である。向山は玄武岩が露出しているところがある。
倉吉市小鴨川の橋より東を見る。この先で天神川と合流する。左に行けば、長瀬高浜と茶臼山のほうに出る。
晴れた日に倉吉市小鴨川の橋より東を見る。八重垣である。
倉吉市小鴨川に架かる橋より西を見る。晴れていたら、正面に大山と蒜山が見える。右側のなだらかな山は四王寺山である。
天忍穂耳と猿田彦や五伴諸はこの川を利用して、清熊稲荷神社の峰から茶臼山にいた大国主に会うために茶臼山の東の内海に下っていた。
私見
2番目、3番目の八重垣は建物のことを言っているが、1番目の八重垣は雲であるというのが通説である。
しかし、「八雲立つ出雲八重垣」の八重垣は、周囲の地形を言っているのではないか、と思われる。
須佐之男は、殺した八岐大蛇(始皇帝の追っ手)の仲間が仕返しをしてくることを恐れていた。
「周囲は雲の沸き立つような山々が多くの垣のようになっていて、外敵が侵入しずらくなっているが、妻を籠らせる宮殿も多くの垣を巡らせて作ろう。そのような宮殿であることよ」というような意味である。
※ 後記
三朝町の3ヶ所の「・・・ほうき」(大瀬→大原→助谷)をたどっていくと須佐之男と稲田姫とその両親は蒜山の長田神社に行っている。そして、天照大神に天群雲剣を渡した。須佐之男と稲田姫とその両親は八岐大蛇(始皇帝の追っ手)を退治してから伊邪那岐を追って天照大神や天穂日と一緒に鳥取県八頭郡大江郷に逃げていた。河原町霊石山や氷ノ山に天照大神の伝承が残っている。
「古事記・八雲立つ」の条は改ざんされているから須佐之男の歌の舞台は島根県東部ではない。八重垣を造ったのは鳥取県八頭郡大江郷であった。稲田姫は須佐之男の子の大国主を生んだ。神大市比売は須佐之男の子の大年神と宇迦之御魂神を生んだ。始皇帝が亡くなったのを知って天照大神は蒜山高天原へ、須佐之男は宇迦之御魂(須勢理姫)と一緒に根国(倉吉市中心市街地)に行った。倉吉市の清熊稲荷神社の峰を本拠地にした。素戔嗚と宇迦之御魂が祭神となっている谷田神社(倉吉市余戸谷町42丸)が古事記にある「根国での冒険」の舞台であった。現在は清熊稲荷神社と神社名を変えている。