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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倉吉市中心市街地は根堅州国であり素戔嗚が治めよと言われた海原であった  [素戔嗚命]

1 古事記には素戔嗚が根堅州国に住んでいることが書かれている。日本書紀は略して根国としか書いていない。

 稗田阿礼はある場所を書き表すのにあとで特定できるようにその場の具体的な特徴を書いている。根堅州国とは稗田阿礼の造語である。「州」とは川と川の間に挟まれた陸地である。支流も含めて全体が根のような川があり、川と川に挟まれた岩盤でできた堅い州があった。そこが根堅州国であった。根堅州国は「堅」の字が入っているから、川と川の間(小鴨川と天神川の間)に挟まれた岩盤でできた堅いところであった。

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 倉吉市周辺の川である。まるで木の根のように見える。全国の川の中で一番木の根に似ているのは鳥取県の天神川である。倉吉市の打吹山の北側に小鴨川と天神川に挟まれた州があり、そこが岩盤でできていた。そこが根堅州国であった。

 葦原中津国を見ればわかるように、当時の国とはあの程度の広さであったことを考えると、根堅州国も現在の倉吉市の中心部であったと思われる。

2 縄文海進のピーク時は倉吉市の中心部近く(住吉町)まで海が来ていた(住吉神社前の案内板より)が、素戔嗚の時代には縄文海退により、倉吉市中心部は原になっていた。以前は海だったから海原と言った。素戔嗚はその海原を治めるように命じられた。

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  古事記に言う「海原」とは、昔海であったが、その時(紀元前200年ごろ海抜4m)は原になっていたところのことを言う。倉吉市住吉神社の由緒に「このあたり一帯入江であった」とする。その状態になるのは海抜20mのときである。

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 伊邪那岐は素戔嗚に海原を治めよといった。伊邪那岐・伊邪那美は蒜山高原(瀛州)より海原(倉吉市駄経寺)に降臨していた。その証が縄文晩期・弥生前期の松ヶ坪遺跡である。天武天皇はそのことを知っていたから松ヶ坪遺跡の前に大御堂を建てた。伯耆民談記は「新宮大明神(祭神 伊邪那岐・伊邪那美)は駄経寺(大御堂)の埴守であった」とする。ヤマト王権は伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた。第八代天皇や第九代天皇も北栄町大島で伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた(宮崎神社の由緒より)。

 海原は世界中にあるが、原古事記には◯◯の海原と書いてあったはずである。藤原氏は◯◯を消している。稲飯命が入座した海原は辰韓の海原(海抜4m~20m)であった。

3 古事記・「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)と思われる。このあたりも根堅州国(黄泉国)と言っていた。大国主命が素戔嗚命を頼ってきた根堅州国もここであった。素戔嗚命は三朝町山田(ヤマタ)にいた八俣大蛇を退治してその時使った十握の剣を倉吉市大原の石上神宮に奉納した。素戔嗚命が居た倉吉市米田の東山神社は天神川を挟んで石上神宮の西にある。

 

 


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