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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天照大神は男性である。 [徐福、天照大神]

 天照大神は女性か


1 天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では 一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)とあることから、女性とする見方が優勢である。日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならない。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。


2 ある方の疑問

 近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし、その寺には天皇の墓や国宝もあるので嘘とも思えないのですが・・・。

(1)伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1mほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火(かがりび)を焚いて秘密神儀を行うといわれる。これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられる。

(2) 神宮へ奉納する御衣(みころも)は男性用

平安時代、すでに大江匡房(まさふさ)は「江家(ごうけ)次第」で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事に言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経(わたらいのぶつね)は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(「内宮男体考証」「国学弁疑」)。

 (3)京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊邪那岐・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴(はかま)で浅沓(くつ)を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸(くび)にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。写真中央が天照大神。「道教と鏡・剣」という本があるくらい道教と鏡は深い関係がある。天照大神は道教の方士であった。

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(4)江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。菊池展明著の「円空と瀬織津姫」によると円空が彫った仏像は瀬織津姫を中心としている。
 江戸時代に流行した鯰(なまず)絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
(5)天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメの踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。天照大神が天岩戸から顔を出したのはアメノウズメの裸踊りであるが、女が女の裸体に興味示すだろうか。男だから覗いたんじゃないだろうか。まわりの者は天照大神が男性だとわかっていたのでアメノウズメに裸踊りをさせた。
(6)天照大神の別名の大日孁貴神、大日女尊、大日女は神社庁による創作である。
 もともと卑弥呼は日女命であるが、神社では日女命に稚を付けて稚日女尊とし、さらに稚日女尊を若日孁尊とも書き換えている。若日孁尊に対応して大日孁貴神が創作された。
 神戸の生田神社では「稚日女尊は『若々しい日の女神』の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名」とする。また鳥羽の伊射波神社では「稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われる」とする。
 若日孁尊は天照大神のご幼名あるいは分身であるとして、天照大神の別名を大日孁貴神、大日女尊、大日女とし女性のごとく書き表す神社もある。
 「稚日女尊は天照大神のご幼名あるいは分身である」とするのは一部の神社だけであり、そのことを記する文献はない。これも明治維新以降の神社庁ネットワークによる創作である。
(7)わが国の天孫族の上古祖系については、「斎部(いんべ)宿祢本系帳」などに見られるが、その重要な系図の天照大神にあたる位置の者には「天底立(あまのそこたち)命」と記されており、すべて男系でつながる系譜となっている。日本の古代氏族について、「姓氏録」など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無である。
(8)「天照大神は男性」と記した古書は多数ある。
 明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば「源平盛衰記」では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の「日本書紀」注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。
(9)地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。 まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、 さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓(ごうきゅう)を手にした。 そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇した。
「戦う時は女も男の格好をするのが古代の風習」であったとは聞いたことがない。
(10)天照大神の原型は「男神」であったと考えられる。江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃(やまがたばんちょう)が天照大神男神説を唱え、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸(くすど)義昭氏などに男神説が見られる。
(11)天照大神は男神であり、瀬織津姫は天照大神の妃(正室)であった(ホツマツタエ)。
 外宮の渡会氏の書(鎌倉時代)によれば「荒祭宮は、瀬織津姫を祀る」とする。神道五部書は天照大神荒御魂の別名は瀬織津姫とする。
 伊勢神宮では荒祭宮は正宮と同格として位置づけられている。荒祭宮では皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する。
 記紀成立以前、男神天照大神と並祭されていた瀬織津姫を宮中祭祀から分離・抹消したのは持統だとされる。
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3 私見

 以前、「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」を倭姫命(卑弥呼)が平定するのに天照大神が男神でなければ効果がない、ことを根拠に男神であるとした。徐福は道教の方士であり、同じく道教(鬼道)を信奉していた卑弥呼のルーツである。徐福は不老長生を追い求めてきたが、卑弥呼は長生を実践し、アワビなどの海産物を食し、96歳くらいは生きていた。

 九世紀に藤原氏は始皇帝の子孫だという主張をしている。藤原氏は始皇帝と徐福の関係は知っていて、天照大神(徐福)一族よりもえらいぞと言いたかったのである。

 藤原氏は、天照大神が日本人ではないことも知っていた。歴代の天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由もこれでわかる。天皇家の始祖が徐福と分かれば、藤原王朝の主張する万世一系が成り立たなくなるから、天照大神が徐福であることを消そうとした。

 明治以降なぜ天照大神は女性とされたのであろうか。明治維新の王政復興で皇室の始祖は天照大神であったから、天照大神が中国人の徐福だったことは消さなければならなかった。消す方法(ウガヤフキアエズ朝が72代続いたとか、神武天皇即位年が紀元前660年としたり、高天原は雲の上にあり天照大神は雲の上から降りてきたとしたり)の一つとして、天照大神は女性であった、とした。天照大神は江戸時代まで男性であった。

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