SSブログ
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

徐福と天照大神の来倭コースは重なる [徐福、天照大神]

 徐福と天照大神の来倭コースは重なる


1 徐福の来倭コース

(1) 中国側の歴史書ー司馬遷の史記(紀元前91年完成)よりー

 徐福の渡来地は全国に30数ヶ所も伝えられている。これは徐福の部下が到着したところである。

〇 史記(司馬遷)秦始皇本紀第六には「斉人、徐市等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛(えい)洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた」とある。

 「海中」とは海の対岸のことである。東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)とは日本海沿岸にある大山、烏ヶ山、蒜山のことであった。

 第1次でも徐福自身は大山(蓬莱山)の北西の米子市陰田町に到着し、大神(伊邪那岐)には会っている。その時に、「光が天を照らす」のを見た。大神(伊邪那岐)に会って、「多くの少年少女を連れて来れば不老長寿の仙薬をやってもよい」と言われた。

〇 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八には「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。

 第2次(紀元前210年)の徐福一行は確実に伯耆国に渡るため、秦韓(辰韓)にしばらく留まり、リマン海流と対馬海流を利用して東海(日本海)を渡り、次々と伯耆国に到着した。

 福付き地名の土地は徐福一行が到着して住んだ集落である。鳥取県中西部に福付き地名が多い(41ヶ所)ということは、「秦韓(辰韓)から次々に伯州(伯耆国)に結集した」とする中国の王輯五の説にも符合する。

(2) 日本側の歴史書ー宮下文書(徐福文書)よりー

 宮下文書(徐福文書)は偽書とされているが、改ざんされていない部分も残っている。これを改ざんした一族は、原本をもとに改ざんする一族であり、古事記・日本書紀の改ざんも基本となる原本をもとに改ざんしている。天照大神が中国人だったという事実は決して明るみに出すことはできないとして今でも女性であるとしたり、ウガヤフキアエズ朝なるものが72代も続いたので徐福とは時代が違うとしたり、国(今でも藤原政府であり藤原の神社庁その他多くの藤原の組織)を挙げて様々な方法で消そうとしている。宮下文書(徐福文書)では、徐福がたどり着いた高天原は富士山の麓であり鳥取県の大山(伯耆富士)・岡山県真庭市の蒜山高原ではないと思わせるように改ざんしている。

〇 宮下文書(徐福文書)には「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。

 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。

 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した」とある。 

(※ 太字は改ざん挿入された部分)

(3) 徐福文書(宮下文書)にある「大山」とは木日国(紀伊国)木立野(和歌山市冬野)の大山ではなく、伯耆国の大山(ダイセン)であった。伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様である(伯耆富士)が、東に進むにつれてその姿がなくなる(大山北壁)。

IMG_0445.jpg

IMG_0454.jpg

IMG_0469.jpg

 「その裾野の小さな湾」のあったところから見た大山。秀麗な山様は失われている。
 中海の船上から秀麗な山様が見えるので徐福は宍道湖→中海を通ってきた。
 米子市陰田町に到着して大神の使いが「大神はもっと東で待っている」と言われ、大山を見ながら海を東に進み大山の裾野の小さな湾(鳥取県北栄町)に上陸した。徐福たちは徐福文書にある「宇記島・原」(北栄町の大島と原)に上陸した。
 どちらも「上陸した」と書かれているが、「宇記島原」は「その裾野の小さな湾」の中にあった。

スクリーンショット 2020-11-21 095212.jpg

 「その裾野の小さな湾」とは大山の東の裾野にあった北栄町の葦原中津である。海抜4mに海面があった地形を見ると、小さな湾(葦原中津)の前に笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。

天照大御神2.jpg

 小さな湾を拡大するとこのようになる。北栄町大島の宮崎神社の由緒には倭建命が「こは浮洲(うきしま)か」といわれたとあり、近くに原集落もある。徐福は「宇記島(うきしま)・原」に上陸した。

 徐福は大山の裾野の小さな湾(葦原中津国)の宇記島・原に上陸した。

 「徐福は一族とともに高天原に止まった」と徐福文書(宮下文書)にある。高天原は蒜山高原(別稿を参照されたし)なので、徐福は鳥取県北栄町の原と大島に上陸し、一族とともに蒜山高原に上がりそこに止まった。


2 天照大神の来倭コース

画像1.jpg

 天照大神と素戔嗚は辰韓から船で出雲の日御碕神社に到着した。出雲の日御碕神社から現在の出雲平野に入ってきた。斐伊川も度重なる洪水による土砂の堆積で河口が高くなっているが内海はもっと広かったはずである。

クリップボード44.jpg

3-77240.jpg

 出雲と鳥取県西部にある5ヶ所の日御碕神社(出雲、米子市陰田町、境港市渡町、境港市小篠津、大山町御崎)は海面が海抜4mにあった地形では海岸のすぐそばになるため、天照大神と素戔嗚の寄港地であったと解される。一番東の大山町御崎の日御碕神社を出港した天照大神は次はどこに到着したのだろうか。

図6.jpg

 古事記には「左の目を洗ったところ、天照大神という名の神が生まれた。次に右の目を洗ったところ、月読命という神が生まれた。次に鼻を洗ったところ、建速須佐之男命という神が生まれた」とある。「生まれた」とあるが「出会った」である。三貴神は伊邪那岐が禊をしているところに到着した。そこは鳥取県北栄町の原であった。

 別稿「伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった」を参照されたし。北栄町の原より東に伊邪那岐が禊をしたところは確認できない。

 伊邪那岐は三貴神と一緒に船で北栄町大島に行った。北栄町大島の宮崎神社の主祭神は伊邪那岐と伊邪那美である。伊邪那岐と伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。

 倭国大乱の時代、孝元天皇と開化天皇(倭建命)は北栄町大島で伊邪那岐と伊邪那美を奉斎している。

クリップボード5.jpg

 天照大神や素戔嗚は伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着した。そして伊邪那岐と一緒に船で大島に行った。伊邪那岐は大島で三貴神が治めるべき国を示した。また連れてきた一族をここで育てるよう命じた。天照大神は高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、倉吉市の灘手神社にしばらくおり高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は海原(母の国)を治めるように言われたが、倉吉市谷の朝日神社に行き、そこでしばらく泣いた。

葦原中津国.jpg

 鳥取県の霊石山や氷ノ山も天照大神の伝承のあることから高天原の候補地になっているが、水田があった高天原にしては狭すぎる。天照大神は天照大神の痕跡の多く残る蒜山(蒜山高原の5神社すべての祭神になっている)に上がった。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(平原)・北栄町の葦原中津国(広沢)にも住んだ。葦原中津国が騒がしくなった。
 天の安河の河原に思兼神や八百万の神が集まり、大国主を生まれた時から守っていた鳥取県八頭郡にいた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原の徳山神社から来た。
 天穂日は伯耆町の神社、思兼神は大山の西麓の神社に多く祀られている。思兼神も天穂日も辰韓から船で東海(日本海)を渡り、上陸したのは米子市陰田町であった。
〇 徐福も天照大神も島根県の宍道湖→中海を通り、鳥取県北栄町の原と大島に上陸し岡山県真庭市の蒜山高原(高天原)に上がった。徐福と天照大神の来倭コースは重なる。このことからも徐福と天照大神は同一人物であることがわかる。


3 参考

 福付き苗字と福付き地名

 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」以降、徐福の仲間だということを知らせるために福のつく苗字と福のつく地名を付けた。

 日本海側の福付き地名(ヤフー地図より)

(1)鳥取県 

※ 伯耆国には福つき地名が41か所ある。

米子市 1福万 2福市 3福原 4上福原 5福井 6福岡 7福頼

南部町 8福里 9福成 10福頼

日南町 11神福 12福寿実 13福塚 14福万来

日野町 15福長

伯耆町 16福永 17福居 18福岡 19福岡原 20福兼 21福島 22福吉

大山町 23福尾

境港市 24福定町

倉吉市 1上福田 2下福田 3福原 4福守 5福積 6福富 7福庭 8福光 9福本 10福山 11福吉

琴浦町 12福永

三朝町 13福田 14福本 15福山 16福吉

湯梨浜町 17北福

※ 因幡国には福つき地名が7か所ある。

智頭町 1福原

佐治町 2福園

鳥取市 3福井

八頭町 4隼福 5福井 6福地 7福本

(2)兵庫県 

 日本海側に福の字の付く地名はない。

(3)京都府 

 福知山の福を除いて、日本海側に福の字の付く地名はない。




​​

nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。