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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった [閑話休題]

 原古事記にあった任那とは全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)のことであった。
 原古事記には「百済が任那を滅ぼした」と書いてあった。日本書紀では新羅と百済を入れ替えている。不比等と百済史官は日本書紀の作成段階で「新羅が任那を滅ぼした」と書き換えた。
任那4.jpg
1 日本書紀における任那(※以下は私見)
◎垂仁天皇2年の条には「先帝(崇神天皇)の御真木に因んで御真奴(ミマナ)と名付けられた」とある。※「奴」とは北九州を「倭奴国」と言っており、「倭奴国」を意識して、全羅南道の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を任那(ミマナ)と名付けられた。崇神天皇の兄弟である卑弥呼と倭健命が中国に行くためのルートとして確立した。日本書紀では神功皇后の三韓征伐に替えられている。
◎応神天皇7年(361年)百済人・任那人らが来て韓人池を造った。※百済人は後の加筆と思われる。
◎応神天皇25年(379年)25年の条は『百済記』の引用である。※神功皇后62年と重複する。この年襲津彦(応神天皇)は新羅に行った。
◎神功皇后9年(326年?)・新羅出兵において、「高麗、百済2国の王は陣の外に出て頭を下げて『今後は永く西蕃と称して、朝貢を絶やしません』といった。それで内官家屯倉を定めた」とある。※神功皇后(卑弥呼と倭健命)は馬韓も平定した。おそらく年代はでたらめ。私見では卑弥呼と倭健命の三韓征伐は173年である。
◎神功皇后46年(361年)斯摩宿禰は卓淳国から百済にいった。※百済は新羅・倭国を乗っ取るために高句麗が346年に建国した。建国から15年後に作戦を開始した。
◎神功皇后47年(362年)百済が初めて朝貢した。新羅人は百済と新羅の貢物を入れ替えた。※最初に貢物を与えおだてておいて、後で奪い取る六韜の戦術である。
◎神功皇后49年(364年)※新羅再征とあるが、これは倭国ではなく高句麗と百済が卓淳国に集まり新羅を討ち破った。後ろにいたのは高句麗であった。百済の朝貢品を新羅が奪ったからというのは後の創作と思われる。
◎神功皇后52年(369年)百済は七枝刀などを奉った。
◎神功皇后62年(379年)新羅が朝貢しなかった。襲津彦を新羅に遣わしたが、新羅王に美女2人を差し出された。※六韜に基づく行為であり、すでに新羅は高句麗と百済に占領されていたものと思われる。
◎雄略天皇8年(463年)の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。※「倭府行軍元帥」を書き換えたものと思われる。
◎雄略天皇9年(464年)、新羅(百済)討伐「狼のような荒い心があって、飽きると離れ去り、飢えると近づいてくる。王師をもって攻め討ち天罰を加えよ」といわれた。※倭王武の官号より雄略天皇は、高句麗・百済と敵対していたものと思われる。不比等・百済史官は「百済」とあったのを「新羅」に書き換えている。
◎雄略天皇21年(476年)、「百済国は一族すでに亡んで、倉下にわずかに残っていたのを、天皇の御威光により、またその国を興した」といった。※雄略天皇がまたその国を興したのなら、百済は倭国に頭が上がらないはずだが。
◎雄略天皇23年(479年)、「筑紫の安致臣・馬飼臣らは船軍を率いて高麗を討った」とある。
◎継体天皇6年(512年)の条は「任那四県二郡割譲事件」の記事である。※賄賂、詐欺が混ざり完全な割譲ではなく後々争いの種になった。。
◎継体天皇21年(527年)の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。※倭の軍を踏みとどまらせるために、賄賂を贈ったのは百済である。
◎継体天皇23年(529年)、加羅国の多沙津(帯沙江)を百済がいただきたいといった。加羅の王は苦言を呈した。「新羅は刀伽・古跛・布那牟羅の3つの城をとり、また北の境の5つの城もとった」とある。※近江毛野の派遣の条は改ざん無しと思われる。「詔して新羅に勧め、南加羅・㖨己吞を再建させようとした」とある。※任那王が大伴大連金村に「・・・新羅は・・・」と言った「新羅」は原古事記では「百済」であった。新羅は多々羅・須那羅・和多・費智の4村を掠め取ったとするが、百済から取り返したのである。
◎継体天皇24年(530年)にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。冬10月調吉士は奏上して「・・・加羅を・・・」は「・・・任那を・・・」である。
◎継体天皇25年(531年)、百済本記には「高麗は安羅に至り、安羅王を殺した。また、倭の天皇・皇太子・皇子皆死んだ」と。
◎宣化天皇2年(537年)、天皇は新羅(百済)が任那に害を加えるので・・・任那を助けさせた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済(新羅)を救った。
◎欽明元年(540年)新羅(百済)が任那地方を併合した。※この年、新羅の法興王が亡くなる。百済に殺害されたものと思われる。
◎欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。※百済(日本)が置いた府だから日本府という。それまでは「倭府」としていた。
◎欽明天皇23年(562年)春1月、「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。※京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と思われないように、あえて具体的に10国の名を挙げて疑いを差し挟まれないようにした。
◎推古天皇8年(600年)、「新羅(百済)と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。新羅王(百済王)は白旗をあげて、倭国の将軍の印の旗の下に来たり、降伏を願い出た。・・・しかし、新羅(百済)はまた任那を犯した」とある。※ 六韜に基づいた戦術である。
◎推古天皇31年(623年) 新羅(百済)征討の再開「この年新羅(百済)が任那を討った。任那は新羅(百済)に属した。天皇は新羅(百済)を討とうとされた。中臣連国がいうのに「任那は内宮家であるのに、新羅(百済)が取ったのです。新羅(百済)を討ち任那を取り返しましょう」と。田中臣がいう。「そうではない。百済は度々豹変する国である。道路の区別さえも偽りがある。おおよそその言うところはみな信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」と。百済と任那に使いを遣わしこの事件について問わせた。・・・数万の兵を率いて新羅(百済)を討った。新羅(百済)国王は大群がやってくると聞き、恐れて手早に降伏を願い出た。将軍らは上奏した。天皇は許された。
※ 私見
 全羅南道で5世紀後半から6世紀中葉にかけての11基の前方後円墳が発見された。※任那4県の割譲(512年)から新羅(百済)が任那地方を併合した(540年)まで、百済が侵略を進めていた時期である。512年以前から百済は全羅南道の任那を侵略していた。
 ウィキペディアは「任那日本府(倭府)とは、任那や加羅地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする倭国の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益を有していたであろう」とする。※541年に任那日本府とするのは任那を百済(日本)が占領したからである。雄略天皇の段にも任那日本府とあるがこれは任那倭府とあったものを書き換えたものと思われる。645年に蘇我入鹿は暗殺されるが、中大兄皇子は631年に百済から人質として6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた百済王子の「余豊璋」であり、中臣鎌足は641年に百済から島流しになって倭国に来た百済王子の「翹岐」と思われる。645年に倭国大王(蘇我入鹿)を殺害した。
2 中国史料における任那
 広開土王碑文(414年建立) には、永楽10年(400年)条に「任那加羅」とある。宋書では438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の南斉書も併記を踏襲している。梁書は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
※私見
 広開土王碑文にある「任那加羅」は、「任那と加羅」の意味であり、宋書、南斉書、梁書における「任那、加羅」の併記も、「任那と加羅」の意味で別の地域である。ここにおける任那は「全羅南道の任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)」を意味していた。
3 倭五王の官号
 倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・ 倭国王」であった。
 ウィキペディアは「任那は金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する」とする。
 ※この中に百済がない。当時倭国と敵対関係にあったのは高句麗と百済であった。高句麗と百済が含まれていないのは当然である。ここでも任那と加羅は別々にかいてあるが、加羅は弁韓=弁辰=伽耶、任那は全羅南道の任那4県と解する。
4 私見
 日本書紀を制作したのは、不比等と百済史官であった。百済系2世の藤原不比等と亡命百済史官である。彼らは原古事記を見て百済の悪行を改ざんすることを考えた。自分の母国を悪く書かれていたら改ざんできるなら改ざんしようとするのは愛国心の表れである。母国を悪く書かれないために、新羅と入れ替わることを考えた。それが現在の日本書紀である。
 倭国は鳥取県中部にあり、新羅から人力船で出港しても1日余りで到着する。紀元前57年から兄弟国であった。加羅の地は弁韓=弁辰であり、辰韓(新羅)とは雑居し同族であった。なぜ新羅が加羅を侵すのか。百済に侵略されていたから取り戻したのである。これも改ざんしている。任那は全羅南道にあったにもかかわらず、それを侵すのは百済しかいないことになるため、日本書紀・欽明23年(562年)において任那とは全羅南道ではなく、新羅の隣の加羅など十国の地だと書き綴った。「百済」と書いてあったのを「新羅」に直した。沢山、書き換えているので読む者は暗示にかけられる。だから、任那は全羅南道にあった任那4県とするものはいなかった。中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も日本書紀に従っているのでよけいに違うとは主張できなかった。



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倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった [閑話休題]

 倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった。

1 公伝年をめぐる諸説(ウィキペディアより)
(1)日本書紀では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
 この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が大きく疑われている。
 伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『 大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
(2)538年(戊午)説
 『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年が有力と考えられた。現在は両書に共通する「戊午年」を以って538年とする説が有力である。

2 私見
 通説は、仏教は欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた、とする。このことに反論する者はいない。未だかってこのことに疑いを差し挟む者はいなかった。しかし、日本書紀の公伝年は改ざんされている。なぜだろうか。それは百済の聖明王は仏像を贈っておらず、仏像を贈ったのは新羅の法興王だからである。百済史官は日本書紀を作るにあたり、百済と新羅を入れ替えたから、新羅王とあったのも百済王にしなければならなかった。三国史記だと思われるがそこには「538年、法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった」とあった。これを百済の聖明王に直さなければならなかった。日本書紀では仏教公伝の2年後に亡くなっているから、聖明王が亡くなる2年前の552年に釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつったとした。538年も聖明王の在位期間中であるが、百済は538年に都を熊津から泗沘へ移しており、倭国に仏教を公伝するようなゆとりはなかったはずである。538年ならば法興王が亡くなる2年前であり、日本書紀の王の名を変えるだけで法興王とぴたりと重なる。
 聖明王は554年に亡くなっているから、538年説では、仏教公伝から16年後となる。日本書紀には「仏教公伝は欽明天皇13年冬10月。聖明王の死は欽明天皇15年冬12月(15年12月9日に百済攻撃を開始している。16年2月に倭国に王子が行き王の死を報告しているので葬儀の期間も考えると王の死は15年12月中と思われる)」とあり、王の死は仏教公伝から2年後である。仏教公伝から王の死まで16年の間の出来事を日本書紀につくりあげることは不可能であるから、聖明王が亡くなる2年前の552年に仏教公伝があったことにした。また聖明王の死は7月とされる。しかし、日本書紀では「聖明王の死は欽明天皇15年冬12月」であり7月ではない。史実は仏教公伝は538年10月であり、王の死は540年の12月であった。
 新羅において527年に仏教を公認した法興王が538年に倭国に仏教を公伝した。2年後の540年に法興王はなくなった。高句麗から新羅に仏教が伝わったのではなく、新羅から直接中国に行くルートがあり新羅は直接中国から仏教を導入したものと思われる。法興王の時代に公認された(527年)後、新羅は南朝梁との交流もあり、国家主導で仏教振興策をとっていた。大規模な寺院跡が見つかるのは百済ではなく新羅である。新羅の皇竜寺の規模は東西288m、南北284m。仏国寺はさらに大規模であった。倉吉の大御堂廃寺の規模は東西は135m、南北は220mである。また、法興王の名は法興寺(規模は南北293m、東西は、北辺215m、南辺260mの台形)や法隆寺や法楽寺の名と似ており関連があるように思われる。特に日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んでつけられたものと思われる。日本書紀・崇峻天皇・法興寺の創建の条も新羅を百済に置換えている。
 ウィキペディアでは「いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたことは疑いないと思われる」とする。その根底には、日本書紀の改ざんされた記載を信じて「倭と百済は盟友関係にある」という思いがある。実は倭と盟友関係にあったのは新羅であった。
 また「次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに倭に対して援軍を要求していた。百済が倭国へ仏教を伝えたのも、倭へ先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった」とする。
 「538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされる」とするが、泗沘は熊津より南にあり、より任那や新羅に接近している。これは任那や新羅に対して攻勢を仕掛けるためであり、2年後(540年)に新羅の法興王を殺害した。倭に援軍をさかんに要求したのは新羅である。大して負けてもいないのに白旗を掲げるのは、権力者に近づくためであり、六韜に基づいた行動である。百済出身の鎌足は六韜を暗記するほど愛読していた。高句麗や百済の行動パターンを見ても六韜に基づいて行動していることが判る。権力者に近づいておだててみたり、時として蜂や大蛇のように牙をむきだしたりと、六韜に基づく行動である。六韜は高句麗や百済のバイブルであった。


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日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている [閑話休題]

 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は入れ替えられている。

1 欽明天皇はおらず、この時の倭国天皇は蘇我稲目天皇であった。原文では新羅とあったものを百済に書き換えているため、新羅王も百済王とした。百済の聖明王(在位523~554)は、原文では新羅の法興王(在位514~540)と思われる。

(1) 日本書紀も中国史料の「翰苑」(660年)も「通典」(801年)も「太平御覧」(983年)も「冊府元亀」(1013年)も朝鮮の「三国史記」(1145年)も「任那は新羅に滅ぼされた」と記している。
この記述は正しいか。
※私見
 任那は新羅と倭(鳥取県中部)を守るために垂仁天皇(在位230年~260年頃)が名付けた地域である。新羅が任那を犯すことはない。
 「翰苑」は現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。太宰府天満宮は藤原氏の管理下にあり、藤原氏は自由に改ざんできる。「通典」は代宗の大暦元年(766年)から徳宗の貞元17年(801年)の三十余年をかけて編纂されたが、藤原朝廷の遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。その後の「太平御覧」や「冊府元亀」も遣唐使が持ち込んだ日本書紀(720年成立)を参考にしたものと思われる。現在の三国史記も日本書紀に従っている。三国史記の原本は藤原氏によって焚書されたものと思われる。
 歴史書を改ざんし、原本を焚書するのが好きな藤原氏である。日本書紀との辻褄を合わせるために、それが他国の歴史書であってもこれくらいの改ざんは平気でしている。「翰苑」も「通典」も「太平御覧」も「冊府元亀」も「三国史記」も史実とは違ったことを記しており、任那を滅ぼしたのは新羅ではなく百済である。

(2) 後漢書・弁辰伝は「弁辰と辰韓は雑居しており、城郭、衣服などいずれも同じで、言語と風俗は異なる。その族は背が高くて大きく、美しい髮、衣服は清楚である。刑罰法令は厳格。その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる」とする。
 南斉書・加羅國伝は「弁辰は辰韓に雑居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、風俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる。皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である」とする。
 弁辰と言い弁韓と言い、伽耶と言い加羅と言うのは、ほぼ同じ地域である。ほぼ、弁辰=弁韓=伽耶=加羅となる。弁辰(加羅)と辰韓(新羅)は雑居していたのであるから、新羅と加羅(伽耶)は紀元前210年の頃から同族である。
 任那という地域名は垂仁天皇(在位230年頃~260年頃)が新羅と倭国を守り中国に行く途中経路としての役割を与えて名付けた朝鮮半島南西部の任那四県の地域名である。任那は新羅と倭を守り中国に行く途中経路としての役割を与えられて名付けられた地域なので、新羅が任那を犯すことはない。
 日本書紀・欽明天皇23年(562年)春1月に「新羅(百済)は任那(全羅南道)の官家を打ち滅ぼした。-ある本に21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国、合わせて十国である」とある。
 京都の藤原氏は任那は全羅南道の任那と疑いを差し挟まれないように、あえて具体的に10国の名を挙げた。「任那とは加羅10国のことである」と、作り話を念押しして加筆した。皆この一文を信じて「任那とは加羅10国のことである」と思い込んでいる。
 任那とは、倭建命と倭姫命が三韓を訪れて中国に行くルートを創設した時から、660年に百済が滅んだ時まで全羅南道の任那4県であった。
 また、日本書紀は「新羅が任那を侵した」とするが、三国史記の原本にあったと思われる「百済が任那を侵した」文章を書き換えている。ことほど左様に日本書紀・欽明天皇の段は「新羅」と「百済」を入れ替えている。

(3) 百済は高句麗と同族の扶余族であり、六韜に基づいて4世紀(364年卓淳国で倭国への道順を尋ねた)から倭国と新羅を乗っ取ることを考えていた。それが成就したのは734年であった。卓淳国というのは、今日の大邱付近に存在した国である。卓淳国は慶州の西に在り慶州に入って来ようとするものを防ぐ役割があった。もともと新羅に属していた。百済が卓淳国に使者を派遣して、倭国との通交の仲介を要請した。346年に建国した百済にとっては建国後僅かに18年後のことであり、百済は倭国や新羅を乗っ取るために高句麗が建国したものとしか思われない。
 卓淳国は、この百済の要求に従って、倭の使者が卓淳国に来た時に、その使者を案内して百済に連れていき、国情を見せ、百済と倭国との正式交渉の端緒を作った。百済は364年卓淳国で倭国への道順を尋ね、367年に倭国に使者を送る。七支刀を贈ったのもこの頃である。382年には新羅は高句麗に乗っ取られていた(三国遺事)。そのときの倭国天皇は応神天皇(葛城長江襲津彦)(在位354年~394年)であった。百済にとって応神天皇(誉田別命)は最初に朝貢したときの天皇であり特別な存在であった。倭国を乗っ取ってから百済は応神天皇(誉田別命)を八幡神社の祭神にした。これが史実であり、高句麗・百済と倭国・新羅との関係史はこれが基本である。これに反する歴史書は改ざんされている。
 百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(ソウル)に移り、その後たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(公州)、さらに538年に下流の泗沘(しび)に移された。

2 日本書紀・欽明天皇の段の「百済」と「新羅」は書き換えられている。
 書き換えられる前の原文を再現してみる(抜粋)。参照したのは宇治谷訳日本書紀。

(1)法興王・任那復興の協議
 新羅の法興王は任那の旱岐らに語って、「倭の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか」。任那の旱岐らが答えて「先に再三百済とは話し合いましたが、まだ返事もありません。・・・。任那は百済と国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
 法興王は「昔、わが先祖の世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが、親交を結んでいた。兄弟のようにして共に栄えることを願った。ところが百済に欺かれて、天皇の怒りをかい、任那からも恨まれるようになったのは私の過ちであった。
  ・・・。任那の境に百済を呼んで、話し合いに応ずる気があるかどうか尋ねよう。天皇への使いが帰らないうちに、百済が隙ををみて任那を侵すならば、自分が行って助けるだろう。お前らは、卓淳らの禍を繰り返すのを恐れるといったが、百済は自分の力が強くてできたわけではない。かの㖨己呑は加羅と百済との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救いたすけられなかった。それで亡んだ。南加羅も亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら百済に内応した。それで亡んだ。
 昔、百済は高麗に助けを乞い、任那と新羅を攻めたけれども、勝てなかった。百済がどうして独力で任那を亡ぼすことが出来ようか。今自分がお前たちと力と心をあわせ、天皇の威力に頼れば任那はきっと復興できる」といった。

(2)百済謀略の戒め
 法興王は任那に対して「・・・。百済が甘言を用いて策略することは、天下周知である。うっかり信用して、すでに計略にはまっていた。計略にはまれば、国を失い、家を亡ぼし身は虜となる。聞くところでは任那と百済が策を決定する際も、土壇場で蜂や大蛇のような本性を表わすと、世の人はいう。・・・。」と。
 法興王はまた「倭の諸卿は長く任那の国にあって、百済に交わり、百済の実情はご存知である。任那を侵し、倭の力をはばもうとするのは久しいもので、今年のみではない。だがあえて百済が動いていないのは、近くは新羅を警戒し、遠くは天皇を恐れてである。朝廷を巧みにあやつり、偽って任那と親しくしている。百済が任那の倭府に取り入っているのは、まだ任那を取れないから、偽装しているのである。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ、任那国を亡ぼし、天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」といった。

(3)任那復興の計画
 法興王は語っていった。「任那とわが新羅とは、古来子弟のような間柄であった。今、印岐弥が百済を討ち、さらに新羅をも討とうとしている。また好んで百済の偽りに騙されているのである。昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした。助け合う国として友好をむすぼうとしても、かえって後悔することになろう。聞くところによると、百済と安羅の国境に大きな河があり、要害の地であるという。敵の五城に対して、吾はここに六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵を請うて、各城に五百人ずつ配し、わが兵士を合わせ加え、百済人に耕作させないようにして困らせたら、百済の久礼山の五城は、自ら兵を捨てて降伏するだろう。卓淳の国もまた興るだろう。倭から遣わされる兵士には、自分が衣服を給しよう。これが第一の作である。なお新羅が下韓に郡令・城主を置くことは、どうして天皇に違背することになろうか。わが願いとすることは、強敵(高句麗)を討つことである。およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう。北敵(高句麗)は強大で、わが国は微弱である。もし南韓(下韓)に郡令・城主を置かなかったら、この強敵を防ぐことはできない。また百済を防ぐこともできない。それで百済を攻めて、任那の存在を図るのである。さもないと滅ぼされて天皇にお仕えすることもできなくなる。これが第二の作である。・・・。」と。
 六年秋九月、新羅は丈六の仏像を造った。願文を作って「この功徳によって天皇がすぐれた徳を得られ、天皇の治められる諸国が、幸いをうけることを願いたい。また天下の一切衆生が、業苦を脱することを祈願して、お造り申し上げる」といった。


(4)倭への救援要請
 十二年春三月、新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した。また軍を進めて平壌を討った。すべて六郡の地が回復された。
 十三年五月、新羅・加羅・安羅は倭国に遣使し「高麗と百済と連合して、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。救援軍を受けて不意を突きたいと思います。軍兵の多少についてはお任せします」と言った。詔して「今、新羅の王・安羅の王・加羅の王・倭府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ、力を専らにせよ。そうすれば、きっと上天の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」と言われた。

(5)仏教公伝
 法興王は、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。
 十四年新羅は遣使して軍兵を乞うた。
 内臣を使いとして新羅に遣わした。良馬二匹・諸木舟二隻・弓五十張・矢二千五百本を賜わった。
 新羅は倭に遣使上表し「今年にわかに聞くところでは百済と高句麗が通謀し『新羅と任那はしきりに倭に赴いている。思うにこれは軍兵を請うて、わが国を討とうとしているのであろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠からぬことである。まず倭の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って倭の路を絶とう』といっています。願わくば天慈をもって、前軍後軍を遣わし、引続き救援をお願いします。派遣の軍がわが国に着いたら、衣粮の経費は臣が負担します。任那への場合も同様ですが、もし任那が堪ええない時は、臣が責任をもって、決して不足はさせません。何とぞ天慈をもって、速やかに代理を遣わして、任那をお鎮めください。またこちらの諸国は弓馬に不足しております。古来、天皇にお助けを頂いて強敵を防いできました。天慈をもって多くの弓馬を賜わりとうございます」といった。
 新羅は倭に遣使上表し「新羅王と安羅にはべる倭の諸臣たち、任那の旱岐らが申し上げます。思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています。十二月九日に、百済攻撃を開始しました。ただ百済のみならば、内臣が率いてきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗・百済の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも遣わして、臣の国を助けてください。また、任那を助ければ事は成功します。自分は軍士一万人を遣わして任那を助けます。今、事はまさに急です」といった。

(6)法興王の戦死
 百済の将があって言った。「よろしくない。倭の天皇は任那のことで、しばしばわが国を責められた。ましてや新羅の滅亡を謀れば、後に憂えを残すことになる恐れがある」と。それで、中止した。
 十六年二月新羅の王子は弟を倭国に遣わして奏上し「法興王は賊のため殺されました」と報じた。天皇は聞かれて深く悲しまれた。使者を遣わし、難波津(東郷池)に出迎えて慰問をされた。許勢の臣が「倭に留まることを望まれるか、あるいは本の国に向かわれますか」といった。蘇我稲目天皇が尋ねて「法興王は天道地理をさとって、名は四方に知られていた。永く平和を保ち、海西の諸国を統べて、千万年までも私に仕えるものと思っていたのに思いがけないことになってしまった。何かの咎があって、こんな禍を招いたのだろうか。今どんな方策で国を鎮められようか」と。王子は対えて「自分は、天性愚昧で大きな計を知らず、ましてや禍福の因るところや、国家の存亡についても分かりません」と。そこで蘇我稲目天皇は「むかし雄略天皇の御世に新羅が高麗に攻められて、累卵の危うきにあった。そのとき天皇は神祇伯に命じて、策を神々にお尋ねになった。祝者が『始め国を建てられた神を請い招いてお祈りし、亡びそうな国主を救えば、国が鎮まり、人々も安らぐであろう』といった。これによって神をお招きし、行って新羅を救われた。聞くところによるとあなたの国では、祖神を祀らないということですが、神の宮を修理し神霊を祭られたら、国は栄えるでしょう」といった。

(7)任那の滅亡
 二十三年一月、百済は任那の宮家を討ち滅ぼした。
 六月、詔して「百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。百済は任那を攻め、人民を虐げた」といわれた。
 七月一日、百済は使いを遣わして調をたてまつった。その使いは百済が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土に帰らなかった。倭人民同様に遇された。今、河内国・・・の百済人の先祖である。

(8)伊企儺の妻大葉子
 百済が任那を攻めたときの様子を問責しようとして大将と副将をしゅっぱつさせた。任那に到り、家来を新羅に遣わしいくさの計画を打ち合わせさせた。百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた。大将軍は、勝って軍を率い、新羅の軍営に入った。
 百済は白旗を掲げ、武器を捨てて降伏してきた。副将は軍事のことをよく知らず、同じように白旗を上げて進んだ。すると百済の武将は「副将軍はいま降伏した」といって、軍を進めて撃破した。副将は軍を退却させ、野中に陣営を敷いた。副将と妾は百済の闘将に生け捕りにされた。 
 八月、天皇は大将軍を遣わし、数万の兵をもって高麗を討たせた。大将軍は新羅の計を用いて高麗を撃破した。大将軍は美女の媛と従女吾田子を蘇我稲目天皇に送った。天皇は二人の女を召しいれて、妻として軽の曲殿に住まわせた。
 十一月百済は使いを遣わして、献上品と調とをたてまつった。使人は帰国を願わず、本国に帰らなかったのでわが国の人民同様に遇した。今、摂津国・・・の百済人の先祖である。

(9)難船の高麗使人
 三十二年三月五日、坂田耳子郎君を使者とし百済に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。
 四月、天皇は病に臥せられた。皇太子を呼び寄せ「お前は百済を討って、任那を封じ建てよ。またかってのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。

3 私見

(3)に「昔から百済は無道であり、嘘偽りで卓淳を亡ぼした」とある。
(5)に「思いみれば百済は無道で、天皇を恐れず、高句麗と心を合わせて、海北の宮家を損ない滅ぼそうと思っています」とある。
(7)に「詔して『百済は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、我が恩義に背き、宮家をつぶした。』といわれた」とある。
※ 「無道」という代名詞を3度も使われている国は新羅であろうか、百済であろうか。
 日本書紀・武烈天皇・武烈の暴挙において「百済の末多王が無道を行い、民を苦しめた」とある。この文章は改ざんされていないと思われる。武烈天皇のころから百済は無道を行う国とされていた。
(3)に「およそ凶党(百済)は誰とでも連合することを考えるであろう」とある。
(4)に「新羅の法興王は自国と百済・任那二国の兵を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した」とある。
(8)に「百済はその計画を知り、急に大軍を動員しわざと敗北を重ねて降伏したいと乞うた」とある。
※ 百済は六韜に基づき、最終的に倭国を乗っ取るためなら倭国の権力者にも近づき倭国に味方をする芝居もした。

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 もともと新羅の地は紀元前210年頃秦国から徐福一行が来たので馬韓に譲ってもらい辰(秦)韓と呼んでいた。その後神武天皇の兄の稲飯命が斯蘆国(新羅の前身)を建国した。倭国は鳥取県中部であったから、倭国に行くには、海流を考慮すると、慶州に都があるのが一番良かった。人力の船でも1日余りで到着する。伽耶(加羅)は古くから新羅と雑居しており、同族であった。任那を広義と狭義に分ける必要はない。任那とは全羅南道の任那4県のことである。伽耶(加羅)は任那ではない。全羅南道の任那は卑弥呼や倭建命が三韓征伐をされてから百済が滅ぶまで存在した。その間百済は何度も任那を侵したが、その都度新羅や倭国の応援によって失地を回復した。

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 日本書紀・継体天皇・任那4県の割譲は詐欺・賄賂に基づくものであり、倭国は割譲していない。新羅と倭国は任那4県を通って中国に行っていた。任那4県を百済に割譲すれば、倭国から中国に行くのに長崎県・熊本県から船を出さなければならない。不便なことであり、新羅と倭国は任那4県を手放したりしていない。日本書紀における任那とは全羅南道の任那4県のことであった。

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 日本書紀・欽明天皇の段の任那とは任那四県のことであった。多数説は加羅の地を狭義の任那とし、任那とは加羅の地である、とする。新羅と接する地は加羅だから加羅を中心に取り上げて論じていた。その原因は藤原氏が新羅を百済と入れ替えているからである。倭国はいったん新羅によって任那四県から中国に行っていた。任那四県がないと新羅に寄らずに中国に行くことになる。対馬海流の関係でこのルートであった。このルートを確立したのは、卑弥呼と倭健命であった。神功皇后の三韓征伐に変えられている。

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 前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。任那とは全羅南道の任那4県のことである。任那4県があれば新羅は直接中国から仏教を導入することができる。新羅への仏教導入はこのルートであったと思われる。




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伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に [閑話休題]

 伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に

1 磯部伊雑宮についてのある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。

 「伊雑宮旧記」・「五十宮伝来秘記見聞集」などによると、「伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたっては瓊々杵を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大御神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。

 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。

 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。


2 磯部の区長をしているかたは「幕府ですか」と言った。幕府ではなく京都の藤原氏と思われる。伯耆国と同じように徳川幕府は志摩国の歴史も知っており優遇したはずである。

 人づてによる口伝たる「伯耆民談記」こそ真実が残るのであり、「伯耆誌」は「伯耆民談記」の改ざん改変を強いるものである。

 「伯耆誌」は地名・人名の読み方の共通性を取り上げて論ずることが多く、机上で論ずる藤原氏の論法に似ている。また1850年頃は明治維新前であり、国威を発揚するために長年にわたって改ざんしてきた「大日本史」を完成させなければならなかった。徳川光圀が暴いた倭国の都を消し去らなければならなかった。

 松岡布政の著した伯耆民談記(1742年)には 

 一、刀鍛冶の事  安綱 「大原五郎太夫と号す。河村郡大原村に鍛冶屋とて今にあり。此所に住居せしとなり、平城天皇の御宇(806年~809年)の鍛冶にて、源家累代の宝剣、鬼切丸の作者なりと言う。・・・。太平記には、会見郡の大原の鍛冶工なりと述べあれど、会見郡に大原の地名なければ、河村郡の誤りなり」とある。

 また、「伯耆民談記」では大原安綱を作った大原は倉吉市大原であるとするが、倉吉市大原は石上神宮があったところだから私も同感である。しかし、通説(これも藤原氏が作り上げた)は西伯郡伯耆町であるとする。西伯郡伯耆町に安綱の碑文があるが、これも藤原氏による比定地の改ざんである。

 徳川家康は賢かった。秀吉が藤原氏にどう扱われていたのかをよく見ていたので京都に近づこうとしなかった。したがって徳川時代は伯耆国の神社は優遇されていた。皇大神宮と名乗ることを許された神社が4社あった。

 明治政府の伯耆国に対する冷遇に対して伯耆国は反発したはずである。明治政府(藤原氏)は明治9年に鳥取県がうるさいことを理由として島根県に併合し鳥取県をなくした。


3 鬼住山ものがたり(旧溝口町発行より) 

 第7代孝霊天皇の時代のことです。

 「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」

 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」

 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」

 などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。

  天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。

 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。

  天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。

  伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。

4 高杉神社(大山町宮内)

〈祭神〉

 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻姫)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子

〈由緒〉

 雄略天皇丙辰の年近郷衆庶に崇りあり。在事年を累ね人民これを歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松姫命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇りありとし、これを神廟に祭祀し御告の隋に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)、二ノ御前社(中殿)、三ノ御前社(末殿)と奉仕し、祭日には嬲神事とて三人の仕人物忌み神懸りあり。幣帛をもって打合せ式あること絶えず。・・・。当社社伝には孝霊山は景行天皇(孝霊天皇)御草創の地にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりと。

〈私見〉

 古事記・日本書紀と同じく藤原氏の神社庁は孝霊天皇であったのを景行天皇に入れ替えている。この神社の主役は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)である。大足彦忍代別命(景行天皇)はあとで取って付けたように思われる。細姫は孝霊天皇の正后であり、山は孝霊山である。

 私見によると、嫉妬の崇りがあったのは孝霊天皇の正后である細姫ではなく、高杉神社の近くの妻木から娶られた朝妻姫であると解する。都は奈良にあったと思わせるように書かれているが、都は鳥取県中部にあったから妻木に行ったり来たりはその日のうちにできた。

 「松姫命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻姫)に対し嫉妬の崇りあり」とあり、おそらく松姫命、千代姫命も妻木の出身と思われる。妻木晩田遺跡は出雲文化であるので松姫命、千代姫命も出雲族と思われる。二人は霊魂となって嫉妬しているから自害したものと思われる。天皇が出雲族の姫を殺したから出雲族は攻撃を始めたという伝承がある。このことが倭国大乱の原因になった可能性がある。


5 孝霊天皇一族について記す伯耆国神社の由緒

(1) 生山神社

 伯耆誌に曰く「伯耆民談記に当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ、というは例の妄誕なるべし」と。

 当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ。

(2) 菅福神社

 当社の社伝記に「母来国日野郡菅ノ郷に鎮座の高宮大明神は人皇七代の帝孝霊天皇御旧跡の御社なり。この大御代に皇尊に背き国民を悩ます者あり。牛鬼という。帝の親征皇后細姫命幸を共にし給う。時に河の辺りに大なる石ありて、これを高御座となし、小菅を刈り薦(こも)となし、御鏡を石の上に置き給い、姫御子御降誕福姫命という。時に河音姦しく、天皇彼の御鏡を河に沈め給いて河伯に祈り給う。忽ち河音止まりぬ。その所を名付けて音無川といい、その地を産盥(たらい)という。さらに宮所を求め給い行宮を造らしめ給う。今の高宮社の地これなり。鏡を置かせ給える所を鏡岩大明神と斎ひ奉り、菅を刈らせ給いし所を菅の里という」と。

(3) 楽々福神社(日野郡溝口町宮原)

 当社鎮座につき伯耆民談記に曰く「楽々福大明神と号する社日野郡に建つ所都て四ヶ所、各孝霊天皇を祭る神社なり。但し印賀村の楽々福の社は彼の天皇の姫宮福姫を祭る神社なりと伝来す。当社を 日野大社と伝う。上古孝霊天皇の御宇当国西端に悪鬼あってこの地に御座をなされし鎮政なりと云う。すなわちこの所にして崩御あってその神跡と云って社の後に方八間の岩窟あり」。なお伯耆誌に曰く「・・・」

(4) 楽々福神社(日野郡大宮村印賀)

 祭神媛姫命(またの名は福姫)は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。伯耆誌に「今当社に福姫命一座とす。社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山といえるもあれど、すべて信じがたし。当社もと榎垣内村一條山に在りし」と。民諺記に記するものあり。溝口村郷社楽々福神社の所に記す。参照すべし。

 祭神媛姫命は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。

(5) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内東宮ノ廻リ)

 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、ついに平定し給う。よって、若健吉備津彦命の功績を畏(かしこし)みてこの地に祀る。大日本根子彦大瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並びに正后妃に当たらせられる。

(6) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内西馬場ノ筋)

 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と弟若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、大吉備津彦命これを平け給い。ついにこの地に薨し給うを以て斎祀る。伯耆民談記に「東西両社共に大社にして神宮寺あり。社の後ろなる山上に岩窟あり。天皇の皇女崩御の窟なりと云い伝う。凡人臨むこと叶わず」と。また伯耆誌に曰く「・・・」

(7) 福成神社

 なお、当社には牛頭天王、愛宕大明神をも合祀すれどもその年代明らかならず。したがって県の明細帳にも脱漏せるが実際には吉備津彦命、大日本根子彦大瓊命、稚武彦命、細姫命、倉稲魂命をも加えるべく、なお他にも脱せるものありて実数は五十柱にも及ぶと云えり。

(8) 日谷神社

 伯耆誌に曰く「当社今大を王にかえて王宮大明神とするは例の社家の杜撰なり。応永の古文書によるに、楽々福大明神の地といえり」

 

6 伝承は全国に多くあるが、その伝承に対し藤原氏の反論がある伝承が本当の伝承である。藤原氏の反論のない伝承は藤原氏自身が創作した伝承であり、九州の神武天皇の伝承や神功皇后の伝承などは、全国に4万4千社ある八幡神社を使って創作された藤原氏の伝承である。 鳥取県中部でも倭文神社の下照姫命や、九品山大伝寺の中将姫伝説や打吹山の天女伝説などは、そこにあるヤマト王権の伝承を消すために創作された伝説である。


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難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった [閑話休題]

 難波津とは東郷池であり、難波の柏の渡りも東郷池にあった。

1 古事記・応神・天之日矛において「天之日矛は夫婦喧嘩をしたため妻は母の国に行くといって船で難波にきて、そこにとどまった。天之日矛はあとを追いかけて難波に行こうとしたが難波の海峡の神が、遮りとめて入れようとしなかった。しかたなしにそこから戻って、多遅摩の国に船を泊めた」とある。
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 もしこの難波が大阪にあったのならば大阪で断られてまた船で但馬まで行ったということである。大阪から関門海峡まで帰って日本海に回って但馬まで行ったということである。
 新羅から関門海峡まで来ることだけでも対馬海流に逆らうことになり大変である。神功皇后でも失敗して引き返したことがあったようである。神功皇后たちの御艦は流されて、沖島に着いたものと思われる。東風が無いと東に流されて難しいようである。神功皇后の伝承として残っている。それ以来、沖島に供え物を置くようになった。
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  難波は東郷池のことであった。長和田より西は真っすぐな波が来ていたが、橋津が波を遮るため北山古墳より東は複雑な波が来ていた。東郷池の長瀬高浜(タギシ)には大国主の頃から沖を通る船を監視していた。出雲大社は監視塔であった。天之日矛は長瀬高浜にいた海峡の神に遮り止められて入れなかった。妻から連絡が入っていたものと思われる。天之日矛はそのまま海流に乗って但馬まで行った。これが無理のない解釈である。時代は記紀の記載より数代前の第7代孝霊天皇の頃ではないかと思われる。

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 「謎の出雲帝国」では、天日矛は出雲族と倭国大乱を戦っているので、弥生時代後期には渡来していた。倭国大乱は孝霊天皇の時代である。孝霊天皇は出雲族を鬼と呼んでいた。

 

2  古事記には「仁徳天皇(大雀の命)は難波高津宮で天下を治めた」とある。
 難波高津宮は鳥取県湯梨浜町の松崎神社と思われる。第13代の武内宿禰天皇は北栄町原にいたが縄文海退により葦原中津国には大陸からの船が入ってこれないようになったので武内宿禰天皇の皇子である第14代仁徳天皇と第15代応神天皇は東郷池に移った。

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祭神の天津彦根が仁徳天皇のことかもしれない。DSC00668 (1)-1.jpg
この神社に来るまでの道は、道教のようにクランクになっている。DSC00676-1.jpg
高津である。

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 難波の枕詞は「押し照るや」である。古事記の仁徳天皇記の「押し照るや 難波の崎よ」が初出である。意味は「一面に照り輝く」である。入江の水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子、それが「押し照るや」の枕詞を生んだ。
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 松崎神社に上がる途中で「水面が陽光を受けて一面にキラキラと照り輝く様子」を写したもの。もっと高いところにある松崎神社に上がれば広くキラキラと照り輝く東郷池全体が見えたはずである。現在は木で見えないが当時は木が植えてなかったと思われる。大伴家持も赴任地の鳥取から東郷池の難波宮に来て歌を詠んだ。

3  日本書紀・推古天皇・遣隋使において「客たちは難波津に泊った。この日飾船三十艘で客人を江口に迎えて、新しき館に入らせた」とある。 

 客というのは、隋から「大国維新の化」(国の文化とインフラ)を教えるためにやってきた裴世清たちである。遣隋使である小野妹子の帰国と一緒に来日した。 

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 蘇我馬子天皇は父の蘇我稲目大王の磯城島金刺宮のあった東郷池の龍島に新しい迎賓館を建てていた。その後、裴世清たちは北栄町島の蘇我馬子大王の皇居に招かれた。曲に後宮があった。 


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「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである [閑話休題]

 「倭国在、東海中」とは、「倭国は日本海の沿岸にある」ということである。

 「一切経」「大正新脩大蔵経」「義楚六帖」「唐大和上東征傳」の中に「倭国在、東海中」とある。この意味するところは何であろうか。
 現代の日本人はこれを読んで、「大陸より東の海に日本列島があるということであたり前のことを言っているだけである」と解するものがほとんどである。

1 「東海」とは日本海のことである。
 韓国、中国を好き嫌いは別にして、韓国は日本海のことを「東海」と呼んでいるし、「『東海』の呼称は『三国史記』東明王本紀(紀元前50年頃)に初めて登場し、広開土大王陵碑、八道総図、我国総図をはじめ、韓国の数多くの文献、古地図などに記録されている。また、東海は『日本海』呼称の根源といえる日本という国号の登場よりも700年も先に使われていた」とする。

※ 私見
 日本という国号は669年に天智が考案し、702年に中国に示した。したがって、奈良時代以前は 日本海とは言わなかった。奈良時代以前は韓国が主張するように、日本海は「東海」といっていた。したがって、 「倭国在、東海中」とは「倭国在、日本海中」と読める。

2 海中とは海の対岸のことである。
 日本書紀に「事代主は国を譲って波の上に幾重もの青柴垣をつくり、船の側板を踏んで、海中に退去してしまわれた」とある。また、準王も「海中」にありと書かれている。事代主は対岸の倉吉市福庭の地に引越しして生きていた(波波伎神社由緒より)。また殷王朝末裔の準王一族は馬韓から対岸の列島に渡り、のちの藤原氏の基礎を築いた。
 したがって、海中という表現は「海の対岸」という意味である。「倭国在、東海中」とは倭国は日本海の沿岸にある、ということである。

3 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。
 「一切経」の中に、「倭国、発音はウワという。東海の海中にある小さな国である。身体に朱色の丹を塗っている。」との記述がある。
 「大正新脩大蔵経」には倭国は「烏波反郭注山海経云倭国在帯方東大海内以女為俗無針工以丹朱塗身也説文亦東海中国也従人委声」とある。
 「隋書倭国伝」に、「百濟をわたり、・・・又竹斯(筑紫)國に至る。又東に秦王(周防か)國に至る。其の人華夏(中華)に同じ、以て夷洲と為すも、疑ふらくも明らかにすること能はず。又十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東、皆(倭)に附庸す。」とある。

※ 私見 「義楚六帖」は954 年 に僧の義楚によって書かれたもので、倭国も日本も同じ国として書かれているが、倭国は日本海沿岸にある小さな国であった「一切経」。徐福一行は倭国(鳥取県中部)に止まった。
 隋書倭国伝の「又十餘國を經て、海岸に達す」とは海岸が倭国であるということである。秦王国は周防だとすると周防から十餘國を経た海岸は日本海沿岸である。当時の国の幅が20~30kmとすると周防から三百数十kmであると思われる。倭国は鳥取県中部になる。

4 南岳慧思は東海中の倭国の王家に倭州天皇(聖徳太子)として生まれ変わった。
 「大唐七代記」は、南岳慧思の六朝転生の記述につづいて、「身を第六の生に留め、機を第七の世に候つ(中略)所以に倭国の王家に生まれ、百姓を哀衿し、三宝を棟梁とす」と記している。これによれば、慧思の第七生は達磨の勧告にしたがって、東海中の「倭国の王家」に生まれ変わったことになる。
 また 「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」とある。南岳禅師は倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であるとしている。倭州天皇とは聖徳太子のことである。

※ 私見 

  聖徳太子は天皇ではないし577年までに生まれているから、この書は間違いである、とする方がいる。聖徳太子は580年生まれの倭州天皇であることを「大唐七代記」の筆者は知っていて「大唐七代記」を著わした。矛盾していることが判っていたら最初から著わさない。
 日本の文献はすべて正しく中国の文献は間違っているという立場に立つと間違いということになるが、中国の文献には嘘を記す動機がない。日本の文献に虚偽が書いてあると考えたほうが正解である。倭国を乗っ取った藤原氏によって倭国の歴史書は書き換えられている。

 

 


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日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである [閑話休題]

 日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである。


 伯耆国(鳥取県中西部)は人命を大事にする国であった。

1 境港で育った水木しげるが戦争で生き残ったときに言われた言葉
 水木しげるは境港で育った。
 「戦時中、特に前線では人間扱いされることなんてあり得ないことでした。人間なのか動物なのか分からないほど、めちゃくちゃだった」。上官に、「よく生きて帰ってきた」と喜んでもらえると思っていたが、「みんな死んでいるからお前も死ね」と言われた。
 バイエンに派遣された分隊は武装した現地人により襲撃を受けて全滅する。しかし、水木氏は不寝番として海軍の見張り台にいたために奇跡的に助かり、必死の思いで友軍部隊にたどり着き、所属する中隊に戻ることができた。しかし、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、おまえも死ね」と言われた。

2 岡本喜八 米子の映画監督
岡本 喜八は「日本のいちばん長い日」を東宝で発表したのち、より自らの戦争体験に近い映画を作りたいと考え、ほかの映画会社に「肉弾」の企画を持ちかける。当時の監督の思いを綴った手記には「『日本のいちばん長い日』の欠落した部分を肉弾でうめねばならぬ。私の目の前で死んだ12人の戦友もフィリピンでもくずと消えた25名の同窓生も夫々小銃弾であった。二度と小銃弾になってはならない」と書いている。
岡本監督の後日談
岡本は「日本のいちばん長い日」は史実に忠実なだけのドラマで、あれには庶民が出てこない。だから、「肉弾」はできるだけ庶民にくっつけて描きたかった。いちばん身近な庶民の代表は僕自身だから、ささやかだけど僕の戦争体験を通してやってみようと。庶民代表でやってみようと。「肉弾」は自分史とも言えるわけで、やれたなと思っている。戦争でいちばん響いたのは、町内の小学生時代の友達が一人も帰って来なかったっていうことである、と言っている。

3 古事記・黄泉国・において「イザナギは契を解くことを妻に申しわたした。この言葉を聞いたイザナミの命が言うには、『・・・あなたの国の人々を1日に千人ずつ絞り殺してあげましょう。』イザナギの命は答えって言った。『・・・私のほうは一日に千五百人の産屋を建てて、子供を産ませることにしよう。』」とある。

4 仙人(イザナギ命)は三千人の少年少女を求めた。
「史記」 巻百十八 淮南衡山列伝 第五十八
  又使徐福入海求神異物。還為偽辭曰: 『臣見海中大神、言曰: 「汝西皇之使邪」 臣答曰: 「然」 「汝何求」 曰: 「願請延年益壽藥。」 神曰: 「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰: 「宜何資以獻」 海神曰: 「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」 』 秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。

≪訳≫  ・・・また、徐福に海に出て、不老不死の薬を求めさせたが、帰って来て偽りの報告をした。「私は海の上で大神に会い、こう言われました。・・・『汝らは何を求めておる?』。『延命長寿の薬をお願いしたいのです』。『汝の秦王の礼物では足らぬ。とても手に入れることはできぬ』と言い、東南の蓬莱山に私を連れて行きました。・・・『何を献上すればよろしいのでしょうか』と言うと、神は『育ちのよい少年少女と、いろいろの道具に技術を献上すれば、神薬を得られよう』と言われました」始皇帝は大いに悦び、少年少女三千人に五穀の種・諸道具・技術者を与え、東方に行かせた。徐福は平野の水の豊かな地に着き、そこの王となって帰ることはなかった。

※ (アットランダム スモーク氏のサイトより)徐州師範学院羅其湘教授の調査より 
「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」
「徐」家はかっての徐王国の末裔だった。その為に始皇帝から無理難題を押しつけられたが、又そういう名家の出身だからこそ、三千人の大集団を任せられる程の信頼が備わっていたのだとする。教授達は「徐福」の家系についても調査し、彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江、准河、泗水、済水の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。

5 殷王朝末裔準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)の祭祀
 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は一万四千体に及ぶ。

※ 列島に現れた鬼・猿は人をさらった。
 (楽々福神社由緒より)孝霊天皇の皇子、大吉備津彦と若健吉備津彦と共に西道鎮撫の勅命によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠(かすめとる)せしを、遂に平定したもう。
 (伯耆誌より)第七代孝霊天皇の世、鬼住山に悪い鬼兄弟眷属が住みついて近郷近在の女子供をさらったり、食料や宝物を奪って住民を苦しめていた。
 奥能登の猿鬼伝説「毎夜あちこちの集落へ出かけては、牛馬、家畜の豚などを食い荒らす。時には、子供をさらったり、傷つけたりした。」
 そのほか、大江山の酒呑童子伝説、備中の温羅伝説、中山神社の猿伝説、高千穂の鬼八伝説など鬼の伝説は全国に多い。

6 倭軍の蝦夷の平定の仕方(皆殺しではない)
 (溝口の鬼の館より)孝霊天皇は溝口の鬼の平定後、兄の鬼を家来にして北を守らせた。
 (日本書紀・景行天皇・蝦夷の性質・日本武尊は神人・より) 願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(武力=武器)を使わずとも自然と従わせるようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え、とある。
 (日本書紀・敏達天皇・吉備海部直難波の処罰より)蝦夷数千が辺境を犯し荒らした。これによりその首領の綾粕らを召して詔され、「思うに、お前たち蝦夷を景行天皇(孝霊天皇)の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領である者は殺そうと思う」とある。殺さなければならないときでも、倭王は必要最小限にとどめた。

7 私見
 水木しげるにしろ岡本喜八にしろ鳥取県西部(伯耆国)で育った。人の命を大事にする環境で育った。水木しげるは「よく死なないで帰ってきた」と喜んでもらえると思っていた。岡本喜八は伯耆国(倭国)ではない日本国の戦争を皮肉交じりに風刺した。
 史記・淮南衡山列伝において司馬遷は「為偽辭」(偽の言葉を言って)と書いているが、「偽」とは外部の者が言ったのであって、イザナギ命が「令名男子若振女」を求めたのは史実であったと思われる。イザナギ命は人口を増やしたかったのである。また徐福は斉王(斉国の王)であった。鳥取県琴浦町「斉尾」の地名は「斉王」であった。斉王の地に徐福が降臨した。琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に天照大御神は降臨した。斉尾集落は伊勢野にある。
 倭国はこのような国であったから、祭祀に生贄の風習を残していた準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷と言われていた青銅器文化の一族)とは神武天皇のときから対立していた。倭王はイザナギ命の考えを引き継いでいたから蝦夷を平定するときも蝦夷をできるだけ殺さないようにした。倭国は人命を大事にし人口を増やすことを考えていた。その結果、天智や鎌足のような危険人物の難民まで大事にしたのである。このことよりイザナギ命(真人)を信奉していた天武天皇が全国の牢獄が空になるほど犯罪者を恩赦された精神がわかる。
 藤原氏は倭国を乗っ取ってからは、準王一族のいたところを聖地とした。準王一族の家津美御子(熊野権現)が徐福一行の4人を手下として仕えさせていたのは、京都の藤原氏にとって愉快であった。今の日本国も藤原精神を引き継いでいるから、出雲振根、家津美御子、鬼八、の居たところを聖地にして援助している。
 倭王は人を殺すことは必要最小限にとどめた。日本書紀にある倭(鳥取県中部)王の武烈・雄略の人殺しの記述は後の藤原氏による改ざんである。

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古事記・日本書紀関係5県(島根、三重、宮崎、奈良、和歌山)が連携して全国に情報発信する「首都圏記紀シンポジウム」が東京で開催された [閑話休題]

 古事記・日本書紀関係5県(島根、三重、宮崎、奈良、和歌山)が連携して全国に情報発信する「首都圏記紀シンポジウム」が東京で開催された。

1 亡命百済人たちは、天武天皇の命によって編纂され712年に献上された原古事記を手に入れた。それを読んだ不比等をはじめとする亡命百済人たちは原古事記を百済版に改ざんし、それを列島における百済国の歴史書にすることを考えた。それが日本書紀である。715年に穂積天皇を暗殺し、716年に山上憶良を原古事記の舞台になっている伯耆国の国守に任命して詳しく調べさせた。720年に不比等の病状が悪くなったので生きているうちに完成させるために、完成を急いだ。不比等が亡くなる3か月前に日本書記は完成した。翌721年に山上憶良は奈良に帰り726年まで東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として仕えたが、長屋王暗殺計画の邪魔になるため726年に筑前守に任ぜられた。藤原氏は729年に長屋王を暗殺し、列島に百済国を再興するための準備は出来上がった。亡命百済政権は日本書紀に基づいて島根県に出雲大社、三重県に伊勢神宮、宮崎県に天孫降臨の地、奈良県に磯城・葛城地方・三輪山、和歌山県に熊野三山を造った。それは列島に百済を再興するための大きなテーマパークであった。すべて倭国(鳥取県中部)にあったものである。741年頃に法華寺畑遺跡を造って倭国(鳥取県中部)の過去を語る者を騙して公開処刑していった。鳥取県中部に都があったことを誰も言うものが居なくなるまで処刑は二百年の間続いた。

2 その後藤原氏は秀吉に倭国の兄弟国であった新羅の都の慶州にあった寺院を焼き討ちさせている。朝鮮半島の三国史記は日本書紀に合うように書かせた。中国に対する白村江の戦いの仕返しは大東亜戦争である。戦後七十年経って首相をリーダーとして藤原氏の元気がよくなってきた。首相のまわりには〇藤氏や藤〇氏が増えてきた。

3 八百年続いてきた倭国(鳥取県中部)を乗っ取った藤原氏が偽の歴史書に基づいて造ったテーマパークのある5県の知事がシンポジウムを行っている。藤原氏の支配は続ているのであり、安保法案が通れば自衛隊の統制は戦前の軍国主義に返るに違いない。倭国にはいなかった天皇(百済王)の名前を言わされて、間違えればビンタをされる。国民を人間と思っていない(藤原氏に非ずんば人間に非ずの思想)藤原政権(今の政府)によって虫けらのように命を消されていく。そういう歴史を繰り返してはならない。

4 安保法案はイケンというデモが鳥取県から始まった。イケン(駄目)という方言は広島県や岡山県でも使っているので広島県でも8月30日のデモでイケン(駄目)が使われた。倭国(鳥取県中部)は安保法案に反対である。また、中国と戦争をしようというのだろうか。核を持っていない日本は最終的には負ける。これから、核を持つより、最初から戦争には近づかないがよい。


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古代史における時代区分について [閑話休題]

古代史における時代区分について

紀元前200年を弥生時代中期中葉とする文書にであった。それによると弥生前期は紀元前900年頃からはじまるそうである。
これは最近の説であり、2000年頃までは弥生時代の始まりを紀元前200年頃とした。ウィキペディアでは紀元前250年頃とする。

1 古代史における時代区分において、弥生時代の始まりがある者によると紀元前200年であるとし、ある者によると紀元前900年であるとする。この紀元前900年説によると弥生中期は紀元前300年から始まるそうである。大阪や九州で見つかった水田稲作の遺跡が古かったので、これは主に大阪や九州の方が主張されているようである。
 しかし、これに従うと土器編年はどうなるのか。今までに多くの遺跡発掘調査報告書が書かれてきた。遺構の時代を特定するのに、遺構上にあった土器の時代で判定してきた。ある模様の時代判定が、50年前には弥生前期であるから紀元前200年とされてきた。今、同じ模様の土器が出てきたら弥生前期であるから紀元前900年であるとされる。
 考古学界において考古学に携わる人はこのような説は出さない。これを許せば昔の調査報告書との比較ができなくなるからである。土器編年というものは、絶対的なものでなくてはならない。藤原氏が神武天皇の即位を紀元前660年にしたからそれに合わせようというのだろうが、嘘は嘘として合わしてはならない。学問はあくまでも真実を追求しなくてはならない。同じものでも50年前と今では結果に700年のひらきがあるようなことは認められない。それは学問ではない。
 私は今まで通り、弥生時代の始まりは紀元前300年(ウィキペディアでは紀元前250年)であり、紀元前900年説は採りません。長瀬高浜遺跡調査報告書も中尾第1遺跡調査報告書も紀元前200年は弥生時代前期として扱っている。羽合歴史民俗資料館の玉の案内に「2200年前の人々はこのような宝飾品を身に着けていた」とある。宝飾品工房跡は弥生前期であるとする。

2 古代史の時代区分は統一されたものがなく、人によって違うが、私は以下の区分に従います。
(1) 縄文時代
 草創期(西暦紀元前1万年ころ~8000年ころ)
 早期(西暦紀元前8000年ころ~6000年ころ)
 前期(西暦紀元前6000年ころ~3500年ころ)
 中期(西暦紀元前3500年ころ~2000年ころ)
 後期(西暦紀元前2000年ころ~1000年ころ)
 晩期(西暦紀元前1000年ころ~250年ころ)
(2) 弥生時代 
 紀元前3世紀中頃(この年代には異論もある)から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称である。(ウィキペディア)
 前期(西暦紀元前250年ころ~紀元前100年ころ)
 中期(西暦紀元前100年ころ~紀元50年ころ)
 後期(西暦紀元50年ころ~220年ころ)
(3) 古墳時代   
 古墳時代の始まりは早くなってきている。古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までを指すことが多い(ウィキペディア)。崇神天皇(在位180年~220年)は全国の青銅器文化の一族を平定し、弥生時代は終焉した。新たな祭祀の前方後円墳を始め、古墳時代が始まった。
 前期(西暦220年ころ~400年ころ)
 中期(西暦400年ころ~500年ころ)
 後期(西暦500年ころ~700年ころ)

3 したがって、初期弥生人と縄文人が一緒に行動していたら、紀元前200年頃の遺跡に弥生前期と縄文晩期の土器が一緒に出てきてもおかしくないのである。








 


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縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか [閑話休題]

 縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか

1 「縄文海進のピークは6000年前から5000年前であり今より5m前後高かった」というのが通説であるが、倉吉市住吉神社の案内板には「往古この一帯が入江であった頃、海の守護神住吉神社をお祀りして植えた一本の欅の木が大きくなって住吉の船繋ぎの大欅と云って親しまれていた」とある。

DSCF0889.jpg

 またNews Reader - German  my flood map | about | privacy  Data provided by NASA にお世話になりますが海抜20mのときに住吉神社の前が入江になります。

鳥取県中部4m.jpg

海抜4m(紀元前200年頃)の鳥取県中部の地形は笠沙の御前が浮かび上がってくるが、倉吉住吉神社周辺は陸地である。

鳥取県中部20m.jpg

住吉神社は中央下になります。住吉神社の前が入江になっています。これが海抜20mの鳥取県中部の地形です。茶臼山と三輪山が島になっています。

倉吉市住吉神社20m.jpg

住吉神社の部分を拡大したのがこの写真です。この一帯が入江になっています。

DSCF0898.jpg

交差点より向こうは入江であった。住吉神社の前より撮影。

2 私はこの住吉神社の伝承は正しいと解します。

 その結果、縄文前期から縄文中期に到る縄文海進のピークの時(紀元前3500年頃)に海面は今より20m高かったことがわかります。また、紀元前3500年頃に住吉神は船で海上交通をしていた。すでに大陸との行き来をしていたのではないかと思われる。

 なぜ通説はピーク時に4m位高かったとするのであろうか。それは、4mの時(紀元前200年頃)に地名を付ける一族が中国から渡来していたからである。彼らは、当時の海岸付近に灘とか穂波とか瀬戸とか津とかの地名を付けた。現在その地名のあるところが、海抜4、5mなので、地名から判断してピークが4、5mであるとした。

3 また、倉吉には縄文人がいて、今に伝承を伝えているということがわかる。近くの北栄町島から縄文前期から縄文晩期に続く遺跡が見つかっているので鳥取県中部には縄文前期(紀元前5000年)から人が住んでいた。

島遺跡発掘調査報告書第2集

http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048

 猿田彦は北栄町島にいて土地感があった土着の縄文人であったろうと思われます。天忍穂耳の指示に従って天孫降臨の道案内をした。天忍穂耳は北栄町下神の三輪山に、猿田彦はその下の北栄町松神を拠点としていた。松神は北条島の近くである。


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