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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった [閑話休題]

 師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。


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1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
 この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
 大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にあった。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上にあったものと思われる。
 川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。


2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
 第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
 彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。 まことに陰険であり、残酷であった。 王のナガスネ彦(長髄彦)は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。 ナガスネヒコ(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
 神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。 我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
 「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。 『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。 『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
 忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
 味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
 「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった]とある。
※ 私見
 道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。三徳川を下った山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。
 兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
 神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。


3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
 第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。「矢の姿になって云々」は作り話である。神武天皇が即位した紀元前60年の頃には大物主(天忍穂耳)は亡くなっていたはずである。日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主もニニギ命と同年代となる。ウガヤフキアエズはホホデミ命のあだ名である(先代旧事本記より)から省略しても、事代主の娘ならばホホデミ命と同年代となる。父親と同年代のおばさんになり、少女であったという記述と矛盾する。古事記も日本書紀も本当の出自を隠すために大物主と事代主に書き換えたものと思われる。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主が娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長という役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けられたと思われる。
 日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ) と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
 当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
 ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
 第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶られたと思われる。


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