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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第四節 千田の御池の説明版より [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第四節 千田の御池の説明版より
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 大歳の神前へ真鶴が稲穂をふくみ来て落としたので、倭姫命がその稲の美しいのをご覧になり千田の神池に種つぎされて、その秋は垂穂・八握穂にたれて、はなはだ見事であった。それで日本国中へその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社・八百万の神たちに神酒をつくり、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。
 その後聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ「わたくしその地を遊覧しよう」と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである。
 持統天皇この地に行幸あり、数日みこしを留めさせられ、勅賜門を建てられた。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りをして、神池の霊水をいただき、太子のお影を拝むことが故実となっていた。のちに、堂宇は雨露のため破れ、御影を仮殿に安置して再建しようとしたが、かなわなかった。思うに、太子は神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者・士農工商いづれか太子の報恩を知らないでいられようか。
  文政十三年寅正月    志州磯部宮本無量山 願主千田寺

1.勅賜門がなぜ建てられたかを考えてみると、千田寺の前に建てたようである。それを建てるまでは、千田寺に自由に出入り出来ていたようである。太子自ら三歳の姿を彫刻した像のある、太子の建てた千田寺を封印するためである。
 壬申の乱の時に、持統と不比等は天武天皇と一緒にここも訪れた。天武天皇から「私は天照大御神の子孫である」と言われた。その時はまだ伊勢神宮はなかった。持統は不比等から天武天皇を毒殺するように頼まれていた。天武天皇を毒殺してから、聖徳太子(蘇我入鹿)の崇りを封印するために不比等の依頼で勅賜門を建てた。1年に7日しか拝観できないような寺はやがて衰退するのは分かりきったことである。

2.天智は百済の官僚機構の左大臣右大臣制度を導入したが、天武天皇はこの制度を廃止し以前の官僚制度に戻した。しかし、持統は天武天皇が廃止した百済のこの官僚機構(左大臣右大臣制度)を再び復活させたという説がある。日本書紀を読むとこのように思われるのだが、660年より倭王朝と百済王朝が列島に並立していて、日本書紀は百済王朝の歴史を基本としているが倭国の有力な天皇を転記している、と考えれば倭国には大臣制度がなかったのであるから何もおかしくはない。
 
3.倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿)は同郷である。
 卑弥呼は師木(鳥取県湯梨浜町)の出身であり、蘇我氏は葛城(鳥取県北栄町)が出身母体である。どちらも鳥取県中部である。天武天皇は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子であり卑弥呼(倭姫命)の子孫になる。


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