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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である [天忍穂耳(大物主)]

   第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である。
 北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
 下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。結婚して後は亀谷集落におられたが下種の大宮神社におられた邇邇芸命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山を往復をしておられた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 邇邇芸命は四歳で関金の神田神社に降りてこられ、成長するまで矢送神社におられ、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築かれたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移られてから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言われた。地元の住民(国神)はこれを聞いて邇邇芸命を「日向御子」と名付けた。邇邇芸命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
 また地元の住民は神阿多都比売のことを「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通られると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
 私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
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 このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないものである。

 「日向御子」とは邇邇芸命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名である。
 米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を消し去ろうとしていた跡がみられるが、米子の三輪神社ではなく、ここの三輪山が本当のモデルである。邇邇芸命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
 神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説があるが、日向とは北栄町の葦原中津国のことであり、なぜ日向というのかは、邇邇芸命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは邇邇芸命のことであり神武天皇ではない。
 原因は藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、また日向御子を奈良の三輪山に持って行ったからである。邇邇芸命が下神の三輪山によく行っていたことと、日向の地名の成り立ちが分かっていないからである。
 下神の三輪山にいたのは、邇邇芸命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。

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