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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった [天孫降臨]

  倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。


1 国土交通省のホームページ「暴れ川とのたたかい」より


  天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水では、小鴨川が天神川に合流するあたりで栄えていた見日千軒を押し流し、下流の北条平野を泥沼に変えてしまいました。

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 2 天神川の造成の跡


「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、「天神川変遷略図」によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称「石山さん」と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。


※ 私見

 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。

 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。

 最近造られた案内板には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれていたことを知っていてわざと別の字を使っている。古事記の文字を別の文字を使って日本書紀を創作した藤原氏の手法である。京都の藤原氏の証拠隠滅の精神が今でもこの地では支配している。

 北栄町下神の本物の三輪神社は1753年、藤原氏の放火により焼失した。奈良の藤ノ木古墳と同じように、北栄町国坂の大国主のいた松樹庵を守っていた「世出開了行者〇〇信女」は1789年に殺された。

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  元文年間(1736-40)まで天神川の下流に「石山(いそのやま)」は存在した。「タギシ」とは「古代の船の舵」のことであり、石山は舵の柄にあたる。舵の本体は長瀬高浜であった。天神川の上流の倉吉市大原を「石上(いそのかみ)」と言っていた。倉吉市の大原神社が石上神宮(倉)であり湯梨浜町長瀬高浜が出雲大社のあった多芸志(タギシ)の浜であった 。

 

3 天孫(饒速日とニニギ)降臨

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 石凝姥以外の5伴緒と思金神は饒速日とともに北栄町の土下山(鳥見の白庭山のちに天香久山)に降臨したが、中洲を通って大国主の本拠地の松樹庵に至り、大国主と一緒に高い建物を建てる打ち合わせをするため笠沙之御前を東に湯梨浜町の長瀬高浜(タギシ)に行った(長瀬神社の祭神と長瀬高浜遺跡より)。

 石凝姥(琴浦町倉坂神社の祭神)は天照大御神や月読命・手力男や天石門別とともに西の方見郷(琴浦町)に降臨した。饒速日が亡くなってニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は矢送神社に戻った。その後、楯縫神社に移り、出雲族の事代主や百八十神の子が成長するのを待っていた。ニニギも成長して葦原中津国(上種の大宮神社)に天児屋根(穂波集落)とともに降臨し、天太玉は伊勢の中尾集落に降臨した。

 饒速日とニニギの降臨の道案内はどちらも猿田彦が行った。


 4 参考

 石 山

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 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。
※ 私見
 今から十数万年前(洪積世)とあるが、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。けっして十数万年前(洪積世)ではない。
 そのほかは正しい。


 長瀬神社
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 1736-1740まで天神川はなかったのだから、由緒は元文年間(1736-1740)から明治維新(1868年)までの間に作られている。「・・・勧請して、」までは維新の際、神社庁が付け加えたと思われる。
 すぐそばの長瀬高浜遺跡から弥生前期の住居跡も発掘されているのだから、長瀬郷は1499年よりずっと以前から開郷していた。郷土史家によると、素戔嗚も江戸時代から祭神であった、とする。
 由良郷の高江神社でさえ周囲に弥生時代後期の住居跡が多く見つかっていて、崇神天皇(在位188年~220年)の創建が想定されるのに、長瀬郷が由良郷より古くないわけがない。維新で神社庁による改ざんが見て取れる。祭神(天太玉・天鈿女)は、崇神天皇の創建から引き継いでいる。


 出雲大社

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長瀬高浜遺跡 径2.5mの巨大4本柱(出雲大社のモデル)。通説が出雲大社のモデルとする稲吉角田遺跡の土器絵画の4本柱建物はこの建物を描いたものである。


 大宮神社

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 北栄町上種の大宮神社の周辺から弥生時代後期の住居跡60棟分が発掘された。大宮神社はニニギが降臨した地として崇神天皇(在位188年~220年)が建立した。

 


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