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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第三節 藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について [藤原氏]

第三節 藤原氏は焚書坑儒をした。「焚書」について 

  日本書紀は天武天皇ではなく藤原不比等が作ったものである。

 702年の遣唐使では日本という国号を使った。しかし、中国はそれまでの倭国との連続性に疑問を抱いていた。藤原不比等は万世の天皇家であることの必要性を感じていた。不比等は原古事記を見て百済国の歴史書に倭国天皇を混ぜて作ることを考えた。それが日本書紀である。

 713年に各国に風土記の提出を求めた。それも一書として参考にしたが、出雲風土記以外は焚書にした。焚書坑儒は大陸のやり方であり、藤原氏が大陸(百済)から来た証拠にもなる。天皇紀、国記、など大事な歴史書はすべて焚書にした。

 日本書紀を作ったのは、天武天皇ではない。日本を征服した藤原不比等が、自分たちが、征服した「倭」を、これからは、倭ではなく、「日本」という国名にしますと、外国にも宣言する独立宣言の記念誌であった。
 不比等は日本書紀を編纂するにあたって原古事記を参考にしている。

 何人かの天皇は、いかにだらし無かったかを書いている。天武天皇がつくるように命じたはずの日本書記に、天皇家の悪口を書くということは、あり得ない。

 原古事記には神武天皇から高市天皇までの素晴らしい業績が書いてあったのだと思われる。

 原古事記は天武天皇が作るように命じたが、実際に出来たのは712年である。天武天皇や高市天皇のことは知っているから、古事記に書くことが出来たのに、推古を最後に終わっている。推古以降の天皇も書かれていたが、削除した考えるべきである。 そして、天武天皇の壬申の乱の部分だけを古事記の序文に残した。壬申の乱は天武天皇の最大の業績であるのに本文に書いてない。原古事記に書かれていた天武紀は、消されたばかりではなく、古事記の他の天皇の所も、改ざんされている疑いがある。


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