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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

 伊那佐の小浜と葦原中津国 [大国主命]

  伊那佐の小浜と葦原中津国

1 伊那佐の小浜はどこにあったか。
 古事記の「伊那佐」とは発音だけであり「いなさ」とは本来の漢字に直せば「否砂」である。
 砂ではない浜であるから、周りは砂浜だったということである。そこに岩盤でできた波打ち際があった。天孫降臨が行われたのは紀元前165年頃であったから、今では完全に海抜5mくらいの陸地のはずである。その条件にぴったり合うのが北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)である。大国主が造ったと言われる葦原中津国も同じ町内の近くにある。国譲りの交渉は大国主が住んでいた本拠地で行われた。
 北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)はまわりが北条砂丘であり岩盤でできた山である。南側の水田も表面だけであって、その下は20数m下まで砂であり、その下にやっと岩盤があるそうである。その岩盤が突き出ているのが茶臼山(宇迦能山=いなさ山)である。
 茶臼山(宇迦能山=いなさ山)のふもとの国坂神社の祭神は少彦名だけであるが、なぜ大国主が祭神でないのか、わざと消してあるところが怪しい。大日本史・日本地理志料・特撰神名牒・神祇志は国坂神社の祭神を大国主であるとする。日本地理志料は「国坂神社は大国主の子孫が奉祀する所である」とする。国坂集落には大国主の子孫がいて、国坂神社を奉祀している。
 この岩盤の山に大国主は住んでいたのである。海抜10mくらいのところに岩を削って清水のでる狭いが平たいところがある。ここに庵もあるがここで国譲りの交渉が行われたとみてよい。小さな砂でない浜である。実物の大国主が茶臼山(宇迦能山=いなさ山)に居られた。

2 茶臼山(宇迦能山=いなさ山)を一周


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3  葦原中津国を形成する十三集落の一つである穴沢集落にある天若日子(大正合併までは倉吉市寺谷の矢野宮神社)を祀っている灘手神社
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 穴沢集落の灘手神社に天照大神、天若日子命、鋤集落に阿遅鋤高日子根、亀谷神社に大国主、事代主、木花之佐久夜毘売、穂波神社に天児屋根命が祀られている。地形的にも葦原中津国であり、十三集落のうち四集落に天孫降臨に関係する神が祀られている。

 徐福(天照大神)は小さな湾(葦原の中津)に到着し(宮下文書)、原(北栄町原)・宇記島(北栄町大島)に上陸し灘手神社に来ていた。灘手神社の前は葦原の中津であった。

 神武天皇は掖上の岡(灘手神社)で国見をして、灘手の指(尾根)の重なりを秋津のトナメにたとえて北栄町大島を秋津島と名付けた。

 第5代孝昭天皇の葛城掖上宮は灘手神社にあった。


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