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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=いなさ山)であった [大国主命]

 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)であった

1  鳥取県神社誌より抜粋

  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社

 祭神 少彦名神

 由緒 創立年月不詳、白河天皇承歴四年六月御卜に国阪神の祭を穢せる祟りあるを以て社司に中祓を科せらる(朝野群載)。当社の御祭神に就いて大日本史に土人の説として、大己貴命を祀ると云ひ日本地理志料も又大国主命を祀る乃ちその裔の奉祀する所と記す。当社前方に面積約二反歩の神池あり、一面に蓴菜河骨を生ず、往昔地方に疫病流行し或は難病人ある時当社に祈願し此の水草を煎用するときは神徳の霊験ありとて其の名遠近に高し、現今尚此の水草を刈取り毎年四月八日薬草祭典を行ひ参拝者に頒つ。

 国坂神社の祭神について、「特撰神名牒」には大穴牟遅神、少彦名神、事代主神、「神祇志」には大己貴命とある。国坂神社の祭神に就いて、「大日本史」に土人の説として、大己貴命を祀るという。「日本地理志料」もまた大国主命を祀るという。「日本地理志料」はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

2 伯耆国久米郡に大神郷があった。

 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では「伯耆国大神岳」とする。

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 北条八幡神社由緒より「上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神(みわ)郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ」とある。上神郷・下神郷・神代郷は大神郷であった。下神郷(大神郷)にある尾根のような茶臼山を古代は大神根(岳)と言っていた。奈良時代までは伯耆国久米郡北条郷を大神郷と呼んでいた。

3 私見

(1) 大神山神社の由緒には「記録の徴すべきものなく」としながらも、「続日本記(797年)に『大山神』、文徳実録(879年)に『大山神』、三代実録(901年)に『大山神』とあり、出雲風土記(733年)に『伯耆国大神岳』、延喜神名式(927年)に『伯耆国相見郡大神山神社』とある」を挙げている。由緒の筆者の「その大山といい大神山というも同一の山なり」とするのは正しいか。

 神祇志料の「伯耆国大神山」と出雲風土記の「伯耆国大神岳」とは同義である。どちらも伯耆国大山(ダイセン)を意味する、とするのが通説である。しかし、伯耆国大神山(岳)の「大神」とは「大神郷」を意味している。

 また、伯耆国大神「山」とは出雲風土記の伯耆国大神「岳」と同義である。「岳」とは百済語であり、より古い新羅語では「根」とする。したがって「岳」とは尾根を意味していた。

 「伯耆国大神山(岳)」とは伯耆国久米郡大神郷にある尾根を意味する。伯耆国久米郡大神郷にある尾根のような山とは北栄町の茶臼山と思われる。伯耆国大神山(岳)とは標高1711mの大山(ダイセン)ではなく標高93mの北栄町国坂の茶臼山であった。

 「御座」とは「本拠地」を意味する。大己貴命(大国主命)、少名毘古那命、須勢理姫命は鳥取県北栄町茶臼山の松樹庵を本拠地としていた。

(2)少彦名神は薬草の神様でもあるため、実際にここにいた。大国主命もここを拠点として活動していていた。藤原氏は下神の三輪山に放火して三輪神社をなくしたのをよいことに、土下集落に移転した三輪神社の祭神を大国主にしている。そして国坂神社の祭神から大国主を削除した。

 また、奈良の三輪山・三輪神社の祭神が瓊々杵命と天忍穂耳であることを隠すためでもある。天孫降臨に関係する二人が奈良の三輪山・三輪神社に祀られることは、宮崎県と重複するからである。

4  国坂の茶臼山について(当時は海に面していた)IMG_0060-1

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 案内板を見ると弘法大師が茶臼山に来た可能性がある。
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 松樹庵の奥にある清水。岩盤が露出している。茶臼山は草木で覆われていて、地質が何でできているかわかりづらいのだが、全体が岩である可能性が高い。この周辺は北条砂丘(鳥取砂丘に次いで広い砂丘)が広がっており(笠沙の御前とは海のほうに傘型になった砂丘があったということである)茶臼山の周りは砂地なのだが、茶臼山が海に面していたときは、砂浜でない浜があった。伊那佐小浜である。建御雷之男による国譲りの談判は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山又の名は大神山)で行われた。
 大国主命、少彦名命、宇迦能御魂命(須勢理姫命)は鳥取県北栄町国坂の茶臼山(宇迦能山=伊那佐山=大神山)の松樹庵を本拠地として全国の国造りに出かけていた。

5 倭国発祥の地

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蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山)
上の山は宇迦能山又の名は伊那佐山(現在北栄町国坂茶臼山)。大国主がスセリ姫を連れて本拠地とした。国坂集落には大国主の子孫が住み、国坂神社を奉祀している。
右下は島集落。下の島集落の丘陵地には縄文前期から晩期までの遺蹟遺構がある。そこに縄文人の猿田彦一族が住んでいた。
蘇我馬子天皇の皇居もこの丘陵地にあった。

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蜘ヶ家山(葛城山)より見る茶臼山(宇迦能山又の名は伊那佐山)と土下山(天香具山)。
右に少し見えているのが天香具山(土下山)。天孫族は何度もこの山を通って大国主のいる伊那佐山に国譲りの交渉に臨んだ。
神武天皇は伊那佐山を拠点として天香具山の麓にいた兄磯城と戦った。香具山の土を取って下したところが土下集落である。写真では香具山(土下山)と伊那佐山(茶臼山)の間の集落である。


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