SSブログ
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

「その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」について [黄泉比良坂]

 「その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」について
1 この文章は、藤原氏がのちに付け加えた可能性が高い。
 以下は田村誠一氏の文章です。
 「これは、太安万侶の書きかたと全く違っています。後の世の人が挿入した文章です。
 理由は以下の通りです。
 稗田阿礼は、その土地の状況を口述しましたから、地名の無いところでは、その地名の状況を本文の中に、書き込んでいます。
 例えば、その1例が古事記に書かれている次の部分です。伊邪那伎が黄泉の国から逃げ帰ったときに、穢らわしいものを見たと禊をした場所を書いた部分です。
是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米志許米岐穢國而在祁理故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而。禊祓也。
 訳は、『ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく、「吾はいなしこめしこめき穢き國に到りてありけり。故、吾は御身の禊ぎ為む。」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき。』
 古事記には、このように表現したところがいっぱいあります。当時は、どこでも地名があったわけではありません。稗田阿礼は訪れたところに地名がないときは、その辺りの様子を書きました。」
 
2 私見
(1)田村誠一氏の言う「伊邪那岐は竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓ひたまひき」とは鳥取県北栄町の原集落であっった。
 根堅洲国は倉吉、葦原中津国は北栄町大島の周辺であることが明らかになったので、黄泉比良坂は倉吉と北栄町の間になければならない。
 黄泉比良坂とは、「黄泉(黄泉国)と津(葦原中津国)とを結ぶ平坂線」というような意味と思います。
 県道23号線(倉吉ー由良線)は難読地名である不入岡(フニオカ)や上神(カズワ)の横を通っているし、なだらかな坂になっている。
 もし、黄泉比良坂を特定せよ、と言われたら、県道23号線に沿った道路と思われる。
 遺跡発掘報告書は、遺跡の分布状況から、古代は倉吉市上神から蜘ヶ家山を通り北栄町原集落に至る道路があり、古代の幹線道路だったのではないか、とする。県道23号線は当時、汽水湖であった穴沢を通るので幹線道路は上神から蜘ヶ家山に上がって北栄町原に至っていたと思われる。
スクリーンショット 2021-07-05 100138 (2).jpg
(2) また、紀元前200年頃にはヨミの国はあったと思われる。それを中国の黄泉という字を当てはめたのは、太安万侶であろうか。私は、これも百済史官ではないかと思う。中国文化に詳しい百済史官の書き換えだと思っています。(山上憶良は702年の遣唐使に同行して中国に行っている)。だから、黄泉(死の世界)と意味ありげな漢字にまどわされないで伝染病の収容所はあるが普通の国であった。根堅州国は稗田阿礼がその国の地形を表して言った造語でありヨミの国という呼び方が紀元前200年頃には通用していたものと思われる。
(3) 古事記は、712年に完成し、その後、歴史上から消えてしまう。812年に見つかったことが「弘仁私記」に記されている。その後、又、消えてしまい、現在は真福寺本という写本が残っている。書いた人は、藤原朝臣在判で、1263年のことであった。この人が書き換えた可能性もある。
 あるいは、451年の間、藤原氏のもとに在ったのだから、藤原氏20代にわたって、「辻褄が合う(整合する)ように書き換えよ」という言い伝えがあったのかもしれない。

nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。