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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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事代主の終焉の地 [天孫降臨]

 事代主の終焉の地

1 ワタラガヒ(お旅所)
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 事代主が船で到着されたワタラガヒ(お旅所)は神社の800m離れた空き地であり、祭りはそこからスタートする、と地元の方は言われる。しかし、地元の歴史家は「灯篭のあるところ」と言われる。神社から200mの距離である。いずれにしても事代主は美保関(海中)から北栄町の亀谷(神のクシフルネ)に帰り船を乗り換えて福庭の地に到着した。

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 国を譲るまでは、事代主は亀谷から、葛城山を通って、茶臼山(いなさ山)にいた大国主に会いに行っていた。雄略天皇は葛城山で事代主の幻影を見た。葛城山は今でもイノシシが獲れる。

2 倉吉市福庭の波波伎神社

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 「ヤマト朝廷(奈良ではなく天孫族は鳥取県中部に降臨していた)は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年(?)、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。

 福庭という地名は徐福一行が住んでいたことを示している。福庭には徐福一行(倭朝廷)の数名が住んでいた。まだヤマト朝廷などと言うものではないが、毎日でも様子を見に行っていたはずである。事代主はこの近くの泉の畔で余生を送られ、そこで生涯を終えた、という伝承があるが泉(いずみ)ではなく、湖(みずうみ)であった。

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 事代主と百八十神は湖(東郷湖)の畔(湯梨浜町長和田)移り、事代主はそこで余生を送られ、生涯を終えた。事代主の子孫が弟磯城であり、磯城県主となった。長和田は波延(ハエ)の地であり、孝霊天皇の妃の蝿姉妹(出雲神族)は長和田の出身であった。崇神天皇(大吉備津日子)は母親の出身地に皇居(師木水垣宮)を置いた。

3 「波波伎」の神社名は元禄時代までは倉吉市大原の大原神社の神社名であった。元禄時代に倉吉市大原にあった波波伎神社の神社名をこちらへ移した。事代主が居たのだからそれにちなんだ神社名であったはずである。島根県の美保神社とは最近まで交流があったそうである。
 藤原氏は元禄時代にあちこちでつじつま合わせをしている。京都にいた藤原氏は鳥取県中部を「こんな田舎」と言って1200年の間さげすんできた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると必要以上に「こんな田舎」という。京都人は鳥取県中部に来るとその言葉が出てくるようにしてあるようである。明治維新で京都の3分の1は東京に移ったが、東京に移った藤原氏はどうか。「鳥取県は観光だけでやって行けばよい」と政府関係者は言うそうだ。


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福庭の波波伎神社で事代主は生涯を終えられたという伝承があり、近くにはえびす本郷という会社まである。


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第十五節 田植えがすんだ葦原中津国 [天孫降臨]

   第十五節 田植えがすんだ葦原中津国 IMG_0067
田植えのすんだ葦原中津国
 由良川の周辺に生えているのは葦。右上は大山。左側に上蒜山、中蒜山、下蒜山。東に中国山脈が連なる。稗田阿礼はこれを見て高千穂と表現した。7世紀のことである。
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田植えのすんだ葦原中津国
 左上に見えるのが神武天皇の四兄弟が住んでいた四王寺山。右の島茶屋あたりは大雨が降れば大きな池となり、県道は通行禁止になることがあった。現在は由良川の改修工事が瀬戸まで進み水はけがよくなったようである。IMG_0106
穂波あたりから葦原中津国を望む。
正面が島のカントリーエレベーター。左奥が津原。右奥が亀谷。
稲作をするには絶好の場所である。IMG_0084
由良川周辺には葦が残っている。
 この地は地形的に葦原中津国であったところである。このような地形は全国の海岸沿いにいくらでも候補が上がると思う。しかし、天孫族は葦原中津国を目標に降りてきたのであり、そして葦原中津国を平定したのである。その平定した状態が残るのがこの地であり、古事記に記されている葦原中津国とは、この地のことを言う。しかし千三百年の間、葦原中津国は特定できなかったのであり、中国地方や日本列島全体や、高天原(天上界)葦原中津国(地上界)黄泉の国(地下世界)というような使われ方をしてきた。長年使ってきた概念は早々変更できないものであるが、小さい特定の地域であることが解かりました。亀谷丘陵の山側には二二ギ命が御所を建てられ、亀谷丘陵の先端にはコノハナサクヤヒメがおられ、穂波には天児屋根がいた。西の琴浦町の大杉、倉坂、上伊勢にもそれぞれ家来が祭神として祀られている。
 すべての条件を満たしているこの地が古事記に言う葦原中津国であることに間違いはありません。

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「クシフルタケ」とは本来「クシフルネ」であって、鳥取県北栄町の亀谷丘陵であった [天孫降臨]

1 「クシフルタケ」とは本来「クシフルネ」であって、鳥取県北栄町の亀谷丘陵全体をさす言葉であり、先端は船着場になっていた。亀谷丘陵の横には由良川が流れている。

 クシフルとはアイヌ語で、川などの向こうをクシと言い、丘をフルというから、「向こう(クシ)の丘(フル)」である。問題は古事記に書かれている、クシフルタケのほうだ。久土布流多気とあるが、これは明らかに当て字。日本超古代地名解でタケに岳ではなく峯と当てているのは、何か根拠があるに違いない。ネがミネになり、それがタケになったのはどういうプロセスがあったのだろうか?ネが縄文や弥生時代の言葉だとしたら、タケは奈良・飛鳥時代の言葉だということだろう。一般的に、日本の古語は、西日本が後から入ってきた百済語、東日本が古くからある新羅語だという。となると、タケは後から入ってきた百済語であった。

2 波波伎神社の由緒

 神社明細帳には、「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬(まがき)に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。

※ 私見

 一ツ木の神玖四浮根(神のクシフルネ)とは鳥取県北栄町の亀谷丘陵のことであった。当時は海抜4mに海面があったので尾崎まで海岸線が来ていた。事代主はそこに船を停めていた。何回もの書き換えの時に「船足」に惑わされクシフネとなったと思われる。邇邇芸命もクシフルネ(クシフルタケ)の山側に御所を造った。

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 亀谷丘陵を上から見たものです。先端の◇形あたりに事代主は住んでおり、国譲り後は木花之佐久夜毘売が住んでいた。この◇形あたりは正確に北口本宮冨士浅間神社と同じ緯度である。この丘陵の山側に邇邇芸命がいた大宮神社がある。この丘陵全体をクシフルタケ(クシフルネ)と言っていた。

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 亀谷丘陵の◇形(事代主は尾崎に祀られていた)より島(右側)と入江の入口(左側遠方)を望む。実はこれが「つくし」の日向の橘の小門であった。木を伐り「つくし」ていたからこの丘陵地は木が一本しか生えていなかった。「一ツ木の神玖四浮根(この丘陵地)」とある。左側遠方の入り口の両サイドは瀬戸と原であるが、伊邪那岐が原で禊をしているときに3貴神が上陸してきた。そして、伊邪那岐と3貴神は前に見える大島に来て、少年少女をここで育てるようにと命じた。海抜4mのラインがすぐ前まで来ている。中が津になっていて、天然の良港があった。徐福(天照大神)文書にある「大山の裾野の小さな湾」とはここのことであった。徐福(天照大神)はこの小さな湾に上陸した。向こうに見える大島が徐福(天照大神)文書にある「宇記島」であった。現在、葦原中津国であったところは全面稲作地帯である。

3 徐福の古墳と言われている八女市の童男山古墳群は27基の円墳である。新宮市徐福公園にあった徐福の重臣7人の墓も円墳であった。

​​ 童男山古墳の伝説や新宮市の徐福の重臣7人の墓は藤原氏が作ったものであるが、京都の藤原氏は徐福たちの墓が円墳であり奈良時代まで都が鳥取県中部にあったことを明治になるまで知っていた。

 鳥取県中部に古墳は2395基発掘されているが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。

 天照大神は徐福であったから天孫も徐福一行であり、その古墳は円墳であった。だから、天孫族が降臨したところは円墳でなければならない。天孫が降臨したクシフルタケ(ネ)は鳥取県中部にあった。


 

 




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美保神社で行われている諸手船神事 [天孫降臨]

 美保神社で行われている諸手船神事

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 美保神社で行われている諸手船神事

 大国主が事代主に国譲りの伝令を送ったときの神事。宮崎県から鯛釣りに来ていたのだろうか。鳥取県中西部から鯛を釣ろうと思えば今でも島根半島へ行く。

 対岸にはおいしい水の出る、大山が見える。この大山が屏風の役割をして、鳥取県中西部は台風被害が少ない。

1 美保神社の由緒 

 事代主は海中に青柴垣をお作りになり、天逆手を拍っておこもりになり、大國主はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。

※ 私見

 毎年4月7日に青柴垣神事があるが、青柴垣と波波伎神社の由緒にある青柴籬とは同じものである。「海中に青柴垣をお作りになり」とは「海の向こうに青柴垣をお作りになり」である。

 「初代・2代・3代の皇后は事代主の御子孫の姫神」とある。「謎の出雲帝国」に「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった」とある。事代主は出雲族であることがわかる。大国主は素戔嗚の子であり、天孫族の仲間である。

2 波波伎神社の由緒

 神社明細帳には、「事代主大神、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。

※ 訳

 "大国主の国譲りの後、事代主が一ツ木の神玖四浮根(亀谷丘陵=クシフルタケ)から福庭の地に移り、福庭の青柴籬が何時までも青々と茂っているように、皇孫の御代も栄えるであろうと予祝し、己は皇孫の近き護り神となろうとおっしゃって、天逆手を打って青柴籬の内に鎮まられた天栄手の宮が当社である"。

3 伝承 

 事代主は、青柴垣に隠れたとあるが、地元には、国譲りの後、実は船を乗り換え海路ひそかに福庭の地に上陸したという伝承がある。事代主は、後々のトラブルに巻き込まれるであろうと考え、波波伎神社奥にある泉の畔に隠れ棲んだ。また「ヤマト朝廷は、事代主が乱を起こすのを恐れて、毎年、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)との伝承もある。事代主はそこで生涯を終えた。

※ 私見 

 一ツ木の神玖四浮根(神のクシフネ)とはクシフルネのことでありクシフルタケ(亀谷丘陵)と同義である。度重なる転記と「船足」に惑わされ「ル」が欠落したと思われる。「クシフルネ」は百済の藤原氏が倭国を乗っ取る以前に使われていた新羅語であり、奈良時代以前の文書と思われる。

 事代主もクシフルタケ(亀谷丘陵)の先端(尾崎)に住んでいた。前まで入江が入りこんでおり、そこに船を止めていた。国譲り後、亀谷丘陵の山側の高いところに瓊々杵命は御所を造り、先端(尾崎)には木花之佐久夜毘売を住まわせた。クシフルタケ(岳)とは丘陵地(尾根)のことであり、高くそびえた山ではない。

 波波伎神社の伝承に「波波伎神社奥にある泉の畔に隠れ棲んだ」とあるが、これも度重なる転記により湖(みずうみ)が泉(いずみ)になった。普通、畔(ほとり)の文字は湖に使う。「湖の畔」とは東郷湖畔の湯梨浜町長和田であった。事代主と百八十神は湯梨浜町長和田に移り住んだ。


 


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第三節 鳥取県関金町の矢送神社と「耳」集落に行ってきました [天孫降臨]

   第三節 鳥取県関金町の矢送神社と「耳」集落に行ってきました。
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 矢送神社の祭神は 天津彦火瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命、素盞鳴尊です。
石段は130段あり、急峻な場所にあるため、幼少の瓊瓊杵尊を守るには良い場所である。
 しかし東と西により高い尾根があるため、日照時間は短い。

「耳」集落である
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 耳と名に付く天孫族は天忍穂耳と神武天皇の子である神沼河耳・手研耳・神八井耳・彦八井耳が思い浮かびます。
 近くに住む者は「小鴨川に土手がなかった頃は耳の前は沼だった」と言う。神沼河耳が気になります。

 前の小鴨川を下れば神武天皇の皇居(橿原の宮)のあった倉吉市大宮集落がある。
 さらに下ればタギシ(長瀬高浜遺跡)がある。手研耳(タギシミミ)も気になります。
 また、前の小鴨川を下れば 大国主のいた茶臼山に到着する。天忍穂耳(大物主)が気になります。


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第一節 高天原=蒜山、天孫降臨地=伯耆国説 [天孫降臨]

佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty氏の高天原=蒜山説
古事記・日本書紀の高天原は岡山県真庭市の蒜山である、とする。

田村誠一氏、vetty氏の天孫降臨地=伯耆国説
田村誠一氏、vetty氏はニニギ命は蒜山から鳥取県北栄町の高千穂(大宮神社)に降臨した、とする。

1  宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関の海に姿を隠した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。

2 ニニギは国譲りで蒜山の加茂神社から犬挟峠を越えて関金の矢送神社に降臨した。ニニギの降臨には五伴緒は随伴しなかった。五伴緒は天照大御神・月読命・饒速日とともに鏡ヶ成からすでに降臨していた。幼少のニニギは矢送神社から上福田(楯縫神社)に移り、百八十神が成長するのを待って上種(大宮神社)に御所を築いた。北栄町の大宮(上種)以前(矢送神社、楯縫神社)はやまかげの場所ばかりで葦原中津国を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。地元の者はニニギに日向の御子というあだ名を付けた。
 高天原(蒜山)から降りてきた天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国にあった。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天照大御神は方見神社に、天太玉命は中尾神社に、石凝姥命は倉坂神社に、天手力雄命は神郷神社に、天鈿女命は長瀬神社にまつられている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵(クシフルタケ)の少し下ったところにある亀谷神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる由良(等由良の由良)の高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。

3 天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、豊玉姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました(但し、ウガヤフキアエズもあだ名と思われる)。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。 

4 ニニギ命は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよと、とらえればよい。北条砂丘にはハングル文字のゴミが多く漂着する。笠沙之御前とは北条砂丘のことであった。北条砂丘は海抜4mに海面があった地形を見ると傘型の砂丘となる。このような場所は全国のどこにもない。後方に葦原中津国が確認できる。葦原中津国の前に笠沙之御前があるとするのが定説である。位置もピタリと付合する。その葦原中津国もニニギ命、木花佐久耶姫、天児屋根によって平定された状態が確認できる。

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 海抜4mに海面がある(紀元前200年頃)の鳥取県中部(倭国)の地形

 

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 道の駅大栄にある看板。今でも半島からの密航者がいる。

  笠沙之御前は北条砂丘であった。ここを巻くように韓国からの船が通ってきた。当時は海岸線が4m高く北栄町の北条砂丘が海の先に浮かんでいて、それを巻くように入ってくれば天然の良港があった。今でも葦が茂っており葦原中津国である。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。

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大宮神社(ニニギ命の御所があった所)に直に射す朝日。

 ※ 上種第1遺跡発掘調査報告書より

 大宮神社周辺から弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。

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 大宮神社を取り巻くように建てられていたことが判る。弥生時代後期だから崇神天皇(在位188年~220年)は全国の由緒のある地に社を創建していったその一社である。ここは邇邇芸が降臨した場所として神社が創建された。

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 葦原中津国より見た夕日。夕日の日照る国。 
 北栄町の松神と下神の北側には大物主(天忍穂耳)のいた三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祭られていた。三輪神社は宝暦三年(1753年)、大日本史の改ざん中であり、京都の藤原氏によって放火され焼失した。ニニギ命(日向御子)は北栄町下種の大宮神社から父のいた北栄町下神の三輪山に何度も来ていたはずである。隣の松神神社には神阿多都比売(コノハナサクヤヒメ)がまつられている。

5 白村江の戦で敗れた亡命百済王朝は奈良の飛鳥から近江の大津に移り(667年)、王族は宮崎県に逃げていた。天武天皇は藤原鎌足を殺害してから鎌足の3人の子供に罪はないとして不比等ら3人を引き取った。11歳の不比等は父鎌足(翹岐)に教えられたとおり、六韜に基づいて天武天皇やその部下を徹底的におだてた。不比等のおだてを見ていた周囲の者は不比等が毒殺の犯人だとは気が付かなかった。誰を毒殺するかは豊璋(天智)の娘の持統と相談した。
 日本書紀の編さんをしたのは不比等の息のかかった百済系史官である。藤原不比等は列島に百済国(箕子朝鮮)を再興したかったのである。 倭国は716年に亡命百済人2世の山上憶良(親倭派)を伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)とした。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくることもせず、調査に専念している。その後日本書紀は720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなった。翌721年に山上憶良は朝廷へ帰った。5年後の726年、長屋王暗殺の邪魔になるとして筑前の国司として九州に左遷された。 729年、長屋王暗殺。734年、倭国(鳥取県中部)にいた34代天皇(大王)を暗殺し、倭国を乗っ取った。

6 因幡国と伯耆国の神社の祭神を見ると、因幡国は古事記による神名が多いのに反し、伯耆国は日本書紀による神名が多い(鳥取県神社誌昭和9年刊)。伯耆国では明治維新前に神社調査なるものが行われている。日本書紀を編さんした一族の子孫は伯耆国神社の祭神名を日本書紀の神名に書き換えさせた。明治政府も藤原氏であった。藤原氏の支配は現在も続いている。
 北栄町下種・茶屋条の西の丘の上にある大宮神社(祭神ニニギ命)は鳥取県神社誌には載っていない。大正2年に合併という名のもとに消されている。現在の大宮神社は造りは新しい。大宮神社は地元住民によっていまでも維持管理されている。下種・茶屋条の住民はずっと昔からこの場所にあって管理してきたそうである。中央の藤原政権も住民の記憶までは消すことが出来なかった。

7 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ -大伴 旅人
(私見)大伴 旅人のいう倭とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。

8 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良
※ 訳 
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
※ 私見
 山上憶良は亡命百済人によるクーデター計画を知ってこの歌を作った。大君とは鳥取県中部(倭国)にいた天皇のことである。山上憶良(親倭派)は鳥取県中部(倭国)から奈良に帰って、後の聖武天皇の教育係もやっているが、このときはまだ長屋親王が亡くなる前であり、大君とは元正ではなく鳥取県中部(倭国)にいた34代天皇のことである。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ大君(穂積天皇の次の第34代天皇)は鳥取県中部(倭国)に居た。この天皇のことは、続日本紀には記されていない。


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