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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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天照大神(徐福)の生涯 [徐福、天照大神]

 天照大神(徐福)の生涯 

1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。

 徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は早くても紀元前205年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳とすれば、紀元前180年頃である。邇邇芸命は紀元前184年頃には生まれていたはずである。邇邇芸命が北栄町上種の大宮神社に降臨したときは25歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。

 邇邇芸命の降臨のとき(紀元前180年頃)の天照大神の年齢は、65歳くらいであった。大国主と饒速日命は年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に出生している。饒速日命が降臨した時には大国主も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。4歳の邇邇芸命が成長するのと同じく大国主の子たちが成長するのを待たなければならなかった。邇邇芸命が4歳で関金の矢送神社に降りてこられて楯縫神社に移られ20数年後に上種の大宮神社の御所に移られた。

 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ蒜山高天原にいたように書いているがこの時はすでに琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。邇邇芸命が降臨する頃は天照大神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢国・伊勢神宮を創るため、鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮を消して古事記を改ざんしている。

 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穂耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇芸命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比売を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇芸命の二柱である」とある。

※ 私見 

 饒速日尊が亡くなったので、天忍穂耳はこういう返事(邇邇芸命が生まれたこと)をしたのである。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良以前は彦火火出見尊であった。

(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。

(2)「消された大王ニギハヤヒの謎」の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神の天火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・天火明命として祀っております。」とある。これは、天火明命は、本来「火火出見尊」であったということである。

(3)私見

 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前は彦火火出見尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

3 私見

 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。

 徐福(天照大神)も丹後には行っていない。丹後に行ったのは徐福の部下である。また、徐福(天照大神)の痕跡が鳥取県東部(河原町の霊石山や氷ノ山)に残るのは始皇帝の追っ手から逃げていたからである。始皇帝が亡くなったのを知って最初に指示された蒜山高天原に戻った。天照大神が蒜山高天原から琴浦町伊勢野の皇大神宮に降りて来たのが何時かは古事記では消してある。

 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて河原町の霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行(天穂日)ならば、年老いた長を導くのは当然である。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。第1次(紀元前219年)の徐福が状況を復奏しないので、始皇帝の追っ手(八岐大蛇)が徐福を追っていた。

※  余談 

 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(紀元前3600年以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは、和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。



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第十二節 大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった。 [徐福、天照大神]

   第十二節 大山や蒜山などの山をセンと読む一族は、山を仙人や神仙の「仙」に置き換えて読む道教の方士徐福の本隊であった。
1 なぜ、全国で蒜山高原の周辺の山だけをセンと読むのか、昔から疑問に思っていたのだが、道教の方士たちが蒜山高原にいたという前提にたてば、山は鉱物や薬草が取れる不老長寿には欠かせない重要なところだから仙人の住む仙という字を付けてもおかしくないと思われる。徐福は大山を蓬莱山だと思い小さな湾より蒜山高原に到着した。蒜山高原にしばらくいて周辺の山々を探索して薬草や鉱物を探したのだろう。大山では頂上から薬草を採って帰る神事が今でも行われている。
 奈良時代までは蒜山高原周辺の山を「仙」と書いてセンと読んでいた。例えば大仙であり蒜仙であり烏ヶ仙であったのではないだろうか。
2 道教の方士は不老不死の仙人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見いだし、仙人たちを信仰し仙人にいたるための実践を求めようとした。その究極の目的は不老長生である。
 古代中国ではなんとかして東海中の三神山に住むという仙人に会い、長寿の薬をもらおうとした。道教の方術は気に満ち幽玄な環境をもつ山が修行に適していたことや、鉱物や薬草が豊富であったことから山と結びついていた。
 彼らは山に「仙」の字をあて「セン」と読んだ。大山(ダイセン)蒜山(ヒルゼン)烏ヶ山(カラスガセン)甲ヶ山(カブトガセン)矢筈ヶ山(ヤハズガセン)などの中心である蒜山高原には道教の方士のいる一族集団が住んでいた。それは、方士徐福の本隊であったと思われる。鳥取県・島根県・岡山県・兵庫県の四県あわせて50くらいの山をセンと読む。
3 蒜山高原一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
 古事記における三貴神より以前の神は96神いたと思われるが、蒜山高原の神社の祭神は24神であり約4分の1が祀られている。珍しい神が多い。蒜山高原は日本最初の首都であり、天都と言ってもおかしくない。以下のとおりである。
福田神社-川上村
 上筒之男命 中筒之男命 底筒之男命 大山祇命 火之迦具土神  久久能智神 志那津彦神 志那津姫神 彌都波能賣神 
長田神社---八束村
 伊邪那岐命 伊邪那美命 闇淤加美神 
加茂神社--八束村
 金山比古命 速秋津比古命 速秋津比売
茅部神社
 大綿津美命
 軻遇突命  大山祇命  神直日神  句々廼馳命   

徳山神社
 伊邪那岐命 伊邪那美命 水分神(天之水分神 國之水分神) 三柱底男(上津綿津見神・中津綿津見神・底津綿津見神) 
4.徐福は方士と呼ばれる学者であり、彼らの学ぶ方術の中には「未来を予測する学」も含まれていた。
 道教では鏡を使って明照法を行なうことによってさまざまな方術が身につくという。たとえば、分身の術、一瞬のうちに千里の彼方まで行く術、雲に乗り氷を踏む術、天地の間のどこにでも出没できる術などである。これらの方術を体得すると、次には神の姿を見ることができるようになる。さらに修行を積むと、未来を予見できるようになり、ついには神仙になれるという。
 卑弥呼が習得していたのも道教の方術であったとおもわれる。

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第十一節 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけたのではなかった。 [徐福、天照大神]

   第十一節 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけたのではなかった。
1 蒜山周辺の50余りの山をセンと読むのは春秋時代の呉から来た集団がつけたのである、という説がある。
 春秋時代の呉があったのは、現在の揚子江河口辺り(上海・蘇州のあたり)である。ここから船で出航すれば半分以上は九州に到着する。彼らは九州の山々にセンという読み方をつけていったと思われるが、九州にはセンと読む山を私は知らない。従って、春秋時代の呉から来た者達が蒜山でも山をセンと付けたのだという仮説は成り立たない。そもそも、呉から来た集団は山に関心はなかったのである。
 山に関心があり、山の読みをセンと付けたのは、山に仙人がおり仙薬が山にあり神仙を追い求めていた、道教の集団であった。それは、3000人余りの徐福の集団であった。徐福の集団は不老長生を求めるという一つの目的によって結束していた集団である。これが、呉の集団であるならば、目的もなくバラバラであった。呉の集団が山に関心があり山に命名していたのならば、九州の山にもたくさんセンという山があるはずである。まったくないのは、蒜山にいて山をセンと名付けた集団は呉の出身者ではなかったということである。
2 天武天皇も道教に傾倒しておられたそうである。
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宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない。 [徐福、天照大神]

 宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない。


1 米子の宗形神社  西伯郡成実村宗像向塔
 「祭神」田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命ほか十八神   三女神は天照大御神・素戔嗚命の御子神とある。血はつながっていないが親といえば親である。
 「由緒」 延喜式神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして古来上下の崇敬殊に篤い。古昔鎮座の地は現在地より北3丁(330m)あまりの宮谷というところにして本宮と呼ぶ。本殿ありしと伝える山頂の地には数多の小石あり。中腹に清泉ありて井戸といい断水することなし。
 古昔当社の祭神は今の大字長田(長砂町小林)に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしという)海路御来着、宗像の地に鎮座せられしと云い、御着船の地を今に船塚と称え御舟は石に化したりと云い伝ふ(戦後宅地として造成されたが二千数百年で木が石になったりしない、と全国の神社を掌握していた藤原氏に一言。今でも宮司に多い)。
重要だと思われる合併  
住吉神社 表筒男命、中筒男命、底筒男命  成実村日原中尾山
熊野神社 伊弉諾、伊弉冉、天照大神  成実村奥谷字谷奥山
2 古事記の「誓約」の所に、次の文がある。音を表すとしてある。
 その霧の中から生まれた神の名は、(タギリヒメ)、またの名は(オクツシマヒメ)という。次に(イチキシマヒメ)、またの名は(サヨリヒメ)という。次に(タギツヒメ)。合わせて三柱の姫神が生まれた。このとき、先に生まれた神のうち、(タギリヒメ)は胸形の奥津宮に鎮座している。次の(イチキシマヒメ)は同じく胸形の中津宮に、また(タギツヒメ)は辺津宮にいる。この三女神は胸形の君たちが奉斎する三前(ミサキ)の大神である。
 「三前」は、「岬」である。古事記に書かれている「胸形」とは延喜式神名式に伯耆国会見郡「胸形」神社とあり伯耆国の胸形の地のことである。延喜式神名式が作られたとき古事記はまだ隠されていたので藤原氏はそのまま胸形神社と延喜式神名式に記載したのであるが、その後古事記に胸形と書いてあることを知り判らないようにすることを考えた。「宗形」神社としたのは宗像と胸形の一字づつを採った苦肉の策である。航空写真を見ると由緒にいう「本宮」の周辺で津となる可能性のある場所は3か所見つかる。海側二か所と大山に向く津が一か所である。また由緒にもあるごとく、宗像の周辺は低いところでも5m以上はあり、「この辺まで入海なりし」というが、それは縄文海進の一番高いとき(紀元前3600年)であり、三女神がこの地に着船したのは、大国主や天照大御神と同時代の紀元前210年頃である。三女神は徐福の少女一行でありタギリヒメは大国主の妻となり葦原中津国(鳥取県北栄町)で阿遅鋤高日子根と下照姫(高姫)を生まれた。宗形神社の目の前には秀麗な山容の蓬莱山(伯耆富士)が見える。徐福一行はこれを目標に東海(日本海)を渡ってきた。表筒男命、中筒男命、底筒男命はその時の船の船頭である。 
3 宗像大社の沖ノ島の出土品の時代は主に4世紀後半~9世紀末であり、海上交通の安全のために供えられたものであろう。魏志倭人伝には「その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずといえばなり」とある。 魏志倭人伝には海上交通の安全のために命を懸けて、船に乗る持衰がいたそうである。それほど海上交通の安全は重要であった。いくら国宝があるからと言っても宗像大社は本家にはならない。胸形神社の創立は三女神が亡くなったときには祀ったであろうから紀元前であるし、三女神は実際に伯耆国に着船されたのであるから、伯耆国の胸形神社が本家である。
4 伯耆国の胸形神社です。
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この日は黄砂でかすんでいたのでシルエットだけであるが、秀麗な山容の大山
5 合併された近くの熊野神社です。
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ほとんど小さな祠状態。 しかし、実際に祭神がいた可能性はある。
6 天照大神と天忍穂耳や天穂日は血がつながっていない。連れてこられた少年たちであろう。宗像三女神も連れてこられた少女たちだったのだろう。天照大神と素戔嗚との誓約は実際に子供を産んだのではなく、行方不明になっていた少年少女を探し出したということである。宗像三女神のように徐福一行の少女たちは米子周辺に漂着していた。のちに神武天皇の皇后となられる比売多多良伊須気余理比売(日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛ー鳥取県伯耆町久古神社の祭神)も徐福一行の少女たちの子孫かもしれない。

7 青森県の棟方さんよりコメントをもらいました。それによると「青森県の棟方一族はもともと山陰(米子)で胸形と名乗っており、江戸時代に北九州に行かされたが、今は棟方と名乗り青森県にいる」ということであった。

8 宗像大社のある地は641年に百済の船が筑紫に到着したところと思われる。

宗像大社.jpg
 2017年7月9日ユネスコ世界遺産に「沖ノ島」、構成資産8つすべてが登録された。当初九州本土の4構成遺産は除外するように勧告されていたが、8遺産すべてが登録された。延喜式神名帳(927年)には米子の胸形神社の記載がある。古事記の胸形氏が米子で祭祀をしていたのは713年よりずっと以前からである。宗像大社が造られたのは江戸時代初め頃と思われる。ユネスコ世界遺産に登録してもらうには、地元の強力な働きかけが必要だという。ただの穴倉にすぎない石見銀山が世界遺産に登録されたのは地元の有力者が20年かけて訴え続けてきたおかげだと聞いた。宗像も地元の強力な働きかけがあったものと思われる。やはり、宗像大社など(藤原氏の造った神社)4遺産も日本政府(藤原氏)が強力に登録申請を勧めていた。偽の胸形(宗像)が公認された。

  神武東征に関係する19自治体が日本遺産登録に向けて活動を開始した。橿原神宮が中心になっているが、これも「日本を取り戻す」といった藤原氏が橿原神宮に働きかけて、亡命百済人によって日本書紀に創られた神武東征関連地を日本遺産にし、また戦前のように軍国主義を復活しようとしている。


 おまけ

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胸形三女神の子孫?!


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第九節 出雲国は徐福の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王であった。 [徐福、天照大神]

 出雲国は徐福の子の天穂日が建国したとされているが、その子の建比良鳥は殷の末裔の箕子朝鮮の準王であった。

 理由
1  殷の末裔の箕子朝鮮も出雲国も青銅器文化であること。
2  銅鐸は馬韓で踊りの拍子とりに使われていたという記述があること。
3  天穂日は徐福の子であり紀元前210年には日本にわたってきているので、紀元前194年にわたってきた準王が天穂日の子供とされても、おかしくないこと。
4  箕子朝鮮の準王は漢人であるが、古事記は「建比良鳥は漢人であるから注意せよ」と書いていた節がある。
5  紀元前194年以降は中国・朝鮮の歴史書では消息が分からないからあくまでも伝説上の国であり存在したかどうかは疑わしい、と通説はいう。しかし、日本に来ていたのだから、藤原氏は知っていて同じ馬韓の地にいたということで、出雲国を厚遇したのだろうが、あえて書いていないので日本の歴史は改ざんされていると隣国に言われるのである。日本に来たら歴史は消える。
6  紀元260年頃に作成された「三国志魏略」に「準王海中、不興朝鮮相往来。準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とある。海中にあるとは対岸に行くということである。(事代主が海中の青柴垣に入ったというのも美保関の対岸の福庭の青柴垣に入ったということである)。行ったり来たりしたが箕子朝鮮を再興することができなかった。対岸とは出雲国のことである。
7  紀元前230年から紀元前195年まで平壌を中心に国を造っていたのだから、徐福一行三千人が通るときも知っていたはずである。徐福一行が蓬莱国に行くことも聞いていたのかもしれない。
8  「史記」「漢書」では、箕子朝鮮の終幕は不確かなものとなっている。箕子朝鮮滅亡が同時代の史料には見えない。

 私見
 辰(秦)韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人が集まった。馬韓はその東の地を割いて与え住まわせ辰(秦)韓人と名づけた。これは秦が敗れる前の徐福たちのことである。
 徐福一行(二次)は紀元前210年伯耆国に到着した。それより16年遅れて準王一行は出雲国に到着した(紀元前194年)。出雲国は殷王朝の末裔が建てた国である。天穂日は能義平野(安来市)におり、準王一族は松江南部にいた。
 箕子朝鮮は、紀元前195年に中国からの亡命者、衛満に簒奪される。『魏略』(260年頃成立)は箕準一族のその後を語っている。「衛満に破れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となった。国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが(箕子)朝鮮の再興はできず」とする。
 紀元260年頃は卑弥呼と崇神天皇が亡くなった直後であり、倭国大乱の後である。倭国大乱は天孫族と準王一族との争いであった。「魏略」は、準王一族は倭国で(箕子)朝鮮の再興を卑弥呼や崇神天皇に阻まれたことを記している、と解する。
 


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徐福(天照大神)が到着したのは伯耆国であった [徐福、天照大神]

 Ikko Kurosawa氏の文章を一部引用しています。

1 始皇帝は方士徐福に仙薬を求めることを二回命じている。一回めは紀元前219で、「蓬莱の薬を手に入れることができなかったのは、鯨に苦しめられて到達することができなかったからです。鯨をしとめる射手を供にして下さい。」徐福はそう奏上した。

 二回目は紀元前210年、大船40艘、良家のけがれのない少年・少女3千人を所望し、船工・百工・方士、金銀珠玉、五穀と機材を積んで神仙の山、蓬莱山、方丈山、瀛州山の三神山にむけ、およそ100艘の大船団を出発させた。始皇帝は滄海郡(旧斉国)に命じて船を建造し、千童城・丱兮城(かんけい)を築いて、これら技術者や童子を集めて渡海訓練をしている。この大プロジェクトに、始皇帝は巨大な費用を惜しみなく出した。始皇帝は徐福に八洞神仙に到達したら爵位を与え、水夫の税を免除する報償を約束した。

 徐福は斉の人で、琅邪(ろうや・山東省東南部)を出発したが、始皇帝は自ら強い弓をもって乗船して、鯨が邪魔をしたら自ら射撃しようと成山まで同行したが、鯨には遭遇しなかった。成山頭で下船して徐福らを見送った。「煙台」に至り、大魚に出くわし、これを射殺したという。(史記・秦始皇本紀三七年)

 始皇帝は、東の聖地、山東半島の「煙台」を、五回の巡行のうち三度も訪れている。この渤海湾の伝説の港町「煙台」から徐福一行は中国本土を離れた。

 中国の白蘭族の歌を始め、屈原の『少司命』『湘夫人』など、すべて五・七言であるので、須佐之男の八重垣歌も五・七調の歌謡であり中国の踏襲ということも言える。

 殷の王は鬼神を尊び、民を率いて神に仕え、何事につけても甲骨に卜占をしるして占いをもっぱらにして、族邑を束ねていた。紀元前千四百年、殷の中心が河南省の安陽市付近にあったことは殷墟の発掘で明らかになった。河南・山東は、後の六国の「斉」で、とくに崇神の念の強い地域だったと言われ、鬼神を畏れる人々だった。このことは魏志の「名曰卑弥呼。事鬼道、能惑衆」、卑弥呼の鬼道と気脈を同じくすると思われる。斉が殷の習俗の色濃い土地であることは確かである。そして、徐福の童子3千人が斉人であれば、なおさらのことである。

2  私見

 王輯五は「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とする。鳥取県中西部には福付き地名が他所より格段に多いから、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。徐福一行は仙薬を求めて伯州(鳥取県中西部)に結集した。三貴神は大山の裾野の小さな湾に上陸し、伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着し、北栄町の大島に移って伊邪那岐は三貴神に収めるべき国を命じ、天忍穂耳に葦原中津国を治めさせるように言依さした。徐福(天照大神)は蒜山(瀛州山)に上がった。

 須佐之男は中国出身であり、徐福一行のNO2であった。八岐大蛇は始皇帝の追っ手であり、さらなる追っ手から逃れるために、徐福(天照大神)と一緒に鳥取県東部に逃げていた。始皇帝は徐福たちが出港した年(紀元前210年)に亡くなったが、亡くなったことはしばらく伏せられていた。徐福と須佐之男は始皇帝が亡くなったことを知って、始めに命じられた高天原(蒜山高原)と海原(倉吉市中心市街地)に戻った。

 Ikko Kurosawa氏は「徐福一行は斉人であり殷王朝の末裔だ」とするが、徐福一行は列島の縄文文化を取り入れて線刻土器祭祀をしていた。準王一族は紀元前194年(徐福たちに送れること16年)に出雲に到着した。殷王朝の銅鐸による生贄祭祀をしていたのは、16年遅れて出雲国・伯耆国・因幡国に来た準王一族であった。因幡国では大国主の兄の八十神であった。

 天穂日の子とされているタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は準王(出雲族)を監視するために安来市の能義平野に派遣された。そして、天穂日は準王一族(出雲族)と婚姻関係を結んだ。しかし、準王一族(出雲族)は残虐な鬼(殷王朝と同じく人間の生贄をした)として全国に広がっていった。

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 福知山大江町元伊勢「皇大神宮」(この大江山に鬼の酒呑童子伝説がある)

 日本の鬼の交流博物館に行って館長に聞いたら「酒呑童子伝説は平安時代ではなく聖徳太子の頃だと思う」と言った。私見ではもっと古く垂仁天皇の頃と思われる。この末社の建て方は出雲大社と同じであり藤原氏が八世紀以降に建てたものと思われる。

 出雲国には藤原忠平関白が制定した延喜式の式内社が187社もあった。しかし、隣国の伯耆国に式内社は僅かに6社しかなかった。これは鬼と言われるほど残虐であった出雲族と藤原氏は同族であったからである。


 

 

 

 


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第七節  東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである [徐福、天照大神]

 東海の三神山とは日本海から見た大山・烏ヶ山・蒜山のことである

 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった」とする。
 上陸した宇記島・原は鳥取県北栄町の島集落と原集落と思われる。島集落も原集落も、紀元前210年では海面が海抜4mであり、波打ち際であった。また葦原中津国を構成しており、天然の良港であった。徐福一行は葦原中津国に到着し、蒜山(瀛州山)に上がった。蒜山高原(瀛州)は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。「富士山麓が高天原である」と改ざんしたのは、藤原氏である。

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 宮下文書にある小さな入り江(葦原中津国の入口)より見た蒜山(瀛州山)。  日本海の海上に出ても、同じように見える。右から上蒜山、中蒜山、下蒜山である。標高は1200m代でありその向こうが蒜山高原(瀛州)になっており、標高は400~500mである。徐福はここに上陸した。東海とは朝鮮半島の人は日本海をそう呼んでいたのであり、瀛州山とは蒜山のことであった。

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左側が普通の中国山脈である。蒜山(瀛州山)がいかに目立つか判る。
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 大山(蓬莱山)は標高1700m代でありもう一つ抜きんでて大きいが、蒜山(瀛州山)も普通の中国山脈に比べると抜きんでて大きい。古代は大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)を目印にして、大陸(新羅)から渡ってきたものと思われる。この奥に宮下文書に書いてある宇記島(島集落)と原(原集落)がある。島の宮崎神社の由緒には「倭建命がここは浮島かと言われた」という記載がある。


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第六節 徐福が見た大山(ダイセン) [徐福、天照大神]

   第六節 徐福が見た大山(ダイセン)

 徐福が筆録したと伝えられている宮下文書(徐福文書)は、「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは。木日国(紀伊国)木立野の大山であった」とする。
 伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様に見えるが、東に進むとその姿を見失う。これこそ蒜山に伊邪那岐命(仙人)のいた東海(日本海)の蓬莱山(大山)であった。
 「伯耆国の大山」ではなく、「木日国(紀伊国)木立野の大山」と書き換えたのは藤原氏である。


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 伯耆富士。西北西より見た大山。秀麗な山様である。本土と島根半島の間を航海してきた。海抜は今より4m高く、島根半島は島であった。
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旧名和町より見た大山。米子と北栄町の中間ではこのように見える。
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 その裾野の小さな湾(北栄町の葦原中津国=豊葦原瑞穂国の入口)より見た大山(ダイセン)(陸地と大きな山)。手前の甲ヶ山(セン)と矢筈ヶ山(セン)の陰になって、頂上しか見えない。


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徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。(王輯五) [徐福、天照大神]

 徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した。

1 秦の始皇帝が天下を握った221年ごろには、秦以外のすべての国々は消滅した。燕・斉・趙の民数万人が、朝鮮に逃避した。朝鮮では、国を割いてまで秦の亡民の建国を許している。辰韓は秦の民が多く集まったので秦韓と呼ばれた。王輯五は、「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国のこと、鳥取県中西部)に結集した」とする。

『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、辰韓には秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた。また、辰韓人は馬韓人とは言語や風俗が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、言語や風俗は似通っていたという。弁韓は日本から渡海して来たものを受け入れるところであったと思われる。

第二段の徐福たち3000人もこの地にたどり着いたようである。そして一斉にではなく、次々にピストン輸送して伯州(伯耆国・鳥取県中西部)に結集した。辰韓は紀元前2世紀頃から朝鮮半島南部日本海側にあった後の新羅と重なる地域である。

2 「韓国の徐福伝説」許玩鍾より

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 全羅北道 井邑郡 泰仁面弓四里 弓四老人会館にて七十七歳の男に聞いた徐福伝説(一九八五年・四月十八日)

 秦始皇に「それならどうかその不老草をあなたが探し求めてきてもらいたい」と言われると徐市は「あそこは遥か遠く、深いところで、一、二、三年間では出来ません。十歳前後の千人か二千人の童男童女を同じく区分けして、百隻ほどの船に乗せて、一、二、三年間を過ごしながら不老草を探し求めるわけであるので、一応農事をして食事を取らなければいけません。ですから豆の種や麦、種籾も要りますし、すべての種を備え、それにシャベルやくわ、ホミ(草かき)のようなもののすべてを備えてからこれらを乗せていかなければ不老草は求められませぬ」という。秦始皇に船や種、童男童女を要求し、また着る服のために綿布千匹を船に乗せて出発する。

 出発すると徐市は「まあ、これで俺たちの天下だ」と言いながら数日を掛けてたどり着いたのが日本であったが、そこは広々とした大平原だけあって野原も畑も何もない。

 (徐市は)どうしようもなく男女一人ずつを夫婦に添わせてやる。森林の山のところであればヤマ、野のところであればノハラ、畑のところが多ければハタケ、川のところであればカワと名付けてから全部を日本のあっちこっちの土地に割りあてた後、「鍬を持っている人、ホミを持っている人、種を持っている人、お前らはこの辺りで種蒔きをしてお前ら同士で食って暮らしていけ」とし、また持ってきた綿布千匹で着物を作ったという。

 結局、五十年間ぐらいが経ってしまい、血気盛りの童男童女たちが子供を生んで、人口が増え広がり、日本の土地に根付いてしまった。

※ 私見

 徐福たちは列島に地名をつけていった。海抜4mくらいのところの海岸であったような地名は徐福たちがつけた地名である。北栄町の瀬戸・穂波・津原・灘手などはその例である。

 そのほかの伝承地には「徐市過此」(徐市が此処を過ぎた)という岩文字などが残る。徐福たちは、半島の東(辰韓)に行っている。徐福は半島の東(辰韓)に至り、日本(東海の三神仙)に向けて出港した。

3 始皇帝は海外にも秦国の威勢を拡大しようとしていた。徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。徐福は「東海王」の異名ももっていた。蒜山高原の周辺では山(ヤマ)を仙(セン)と読むところが多い(50くらいの山)が、これは仙人や仙薬を探していた徐福一行が名づけたものだと思われる。徐福は純粋に不老長生の仙薬を探しに日本にやってきた。丹後に行ってからも冠島で仙薬を探している。徐福は王になるために来たのではないが結果として平原・広沢(葦原中津国)を得て王(天照大神)となった。

4 『北史』新羅伝には、「新羅とは、その先はもと辰韓の苗裔なり」とある。新羅は紀元前57年に稲飯命(神武天皇の兄)によって建国された。「新撰姓氏録」では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。神武天皇の四兄弟は紀元前70年頃、東夷を平定されるために伯耆国を発たれた。二男の稲飯命は辰韓に渡り鉄製の剣や刀や鏃を創って神武天皇たちのもとに送った。神武天皇の即位年は紀元前60年である。その3年後の紀元前57年に、二男の稲飯命が辰韓の地に新羅を建国した。着かれてから建国までにかなり年数がたっているが、人望を得るのには必要な時間であった。

5 伯耆という国名の由来

除氏は秦の姓も賜っている。伯太は「はた」と読む。魏志東夷伝には「辰韓は馬韓の東において、その耆老が言うには、古くの亡命人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を割いた」とある。

伯耆とは伯太の耆老から来ている可能性が高い。

6 続、宗像三女神

 

宗形神社案内板には宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の御子神である、とかいてある。天照大神は道教の方士であり占いや祈りが大事であった。三女神は方士徐福によって少女たちの中から選ばれた日本での最初の巫女であった。到着した順に奥津宮、中津宮、辺津宮に分かれて、海上交通の安全を祈った。後に卑弥呼も伊射波神社の前に巫女として先輩である市杵嶋姫命を祀っている。直井裕氏も言うように、卑弥呼は天孫族を介してつながりがコの字になるが徐福の子孫である。


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第三節 鳥取砂丘に次ぐ伯耆国の北条砂丘に漂着したハングル文字のゴミ [徐福、天照大神]

   第三節 鳥取砂丘に次ぐ伯耆国の北条砂丘に漂着したハングル文字のゴミ

鳥取砂丘に次ぐ鳥取県中部の北条砂丘(笠沙之御前)に漂着したハングル文字のゴミです。

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プロパンガスボンベまで漂着していた。

2.朝鮮半島からのゴミが鳥取県や丹後半島に流れ着くということは、対馬海流とリマン海流の作用によって鳥取県や丹後半島あたりに漂着するからである。日本列島と朝鮮半島との地形を見ても鳥取県あたりで日本海が広がっていてリマン海流が南に押す作用が理由であると思われる。

 この現象は2000年前でも同じであったと思われる。動力が人力だけの古代においては、この対馬海流とリマン海流の流れは非常に重要であった。

3.徐福は紀元前219年に最初の航海に出ている。その時は一斉に海に乗り出した。その結果、散りじりとなり日本全国に徐福の船が漂着した。徐福は北九州より朝鮮半島に渡り始皇帝に奏上して再度挑戦した。初回から九年後のことである。北九州に天照大御神の痕跡が残るのはそのためである。

初回は失敗したが徐福は対馬海流のことが解かり朝鮮半島の東側から出航することにした。二回目は3000人を引き連れて、辰韓にたどり着き、しばらくここに止まってから伯耆国に向けて次々と出航していった。徐福一行は伯耆国に結集し蒜山高原に居を構え周辺の山々から仙薬、薬草、鉱物を採取していった。


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