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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

神武天皇の皇軍と兄磯城の軍と戦った舞台は、鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]

 

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 北栄町土下山の頂付近の赤土層。

 二人は無事山について、土を取って帰った。天皇は大いに喜び、この土で多くの平瓦や、手抉(たくじり)、厳瓮(いつへ)、などを造り、丹生の川上にのぼって、天神地祇を祀られた。・・・・・。これまで皇軍は攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝った。しかし、甲冑の兵士は疲労しなかったわけではない。そこで少し将兵の心を慰めるために歌を造られた。

 いなさの山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我らは腹が空いた。鵜飼をする仲間達よ。いま、助けにきてくれよ。

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2 私見

 国譲りの交渉は伊那佐山(茶臼山)の伊那佐小浜で行われた。大国主は事代主さえよければ、天孫族に葦原中津国を譲りましょうと言って、天孫族は葦原中津国を手に入れた。神武天皇はその「伊那佐山」を拠点としていた。神武天皇は弟猾と椎根津彦に老人のかたちを造って香久山の赤土を取ってこさせた。土を下したところを土下(はした)という。現在の鳥取県北栄町の土下(はした)集落である。茶臼山(伊那佐山)と土下山(天の香具山=鳥見の白庭山)の間にある。土下山(天の香具山=鳥見の白庭山)には土下古墳群があり現在二百以上の古墳がみつかっている。

 紀元前60年頃は海抜4m位に海面があったので、北栄町米里集落、島集落は汽水池に面していた。磐余邑の中ほどは汽水池になっていたから、片居・片立とか西片の地名が付いたと思われる。神武天皇は西片(北条島あたり)にいた兄磯城の軍を打たれた。磐余邑は鳥取県北栄町の米里、島集落であった。

 ※ 参考 

 「北栄町米里集落の中央の田の下には葦の層が厚く堆積している」と地元の方は言う。随書倭伝には「倭国は湿地帯が多く平野が少ない」とある。

 北栄町北条川の分水堰で川鵜をよく見かける。偶然かもしれないが、そのあたりで北条島を本拠地としていた縄文人(猿田彦一族)は鵜飼いをしていた。

3 大国主の本拠地は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)であった。

  鳥取県北栄町の茶臼山のふもとにある国坂神社(鳥取県神社誌より抜粋)

 祭神 少彦名神

 国坂神社の祭神について、『特撰神名牒』には大穴牟遅神 少彦名神 事代主神、『神祇志』には大己貴命とある。『大日本史』に土人の説として、大己貴命を祀るという。『日本地理志料』もまた大国主命を祀るという。『日本地理志料』はさらに国坂神社は大国主の裔(子孫)の奉祀する所と記す。国坂集落には大国主の子孫がいて国坂神社を奉祀している。

※ 私見

 出雲風土記(730年)に「伯耆国大神岳」とある。「岳」とは百済語であり、百済人の藤原氏がこの国を乗っ取った奈良時代より古い新羅語では「根」と書く。その意味する所は「尾根」である。鳥取県北栄町の茶臼山は周辺が北条砂丘であり20m下の岩盤から突き出している標高93mの尾根である。茶臼山の周辺を古代は久米郡大神郷と言っていた。大神郷にある岳(尾根)だから大神岳と書いた。大神岳とは大山ではない。大神岳は後に藤原氏によって大神山と書くようになった。

 神祇志料(明治6年)に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命は伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。大神山は大神郷にあった山だから大神山という。大神山は鳥取県北栄町の茶臼山であった。


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