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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第一節 藤原氏について(日本書紀は偽書) [藤原氏]

1 百済(朝鮮半島西部)には準王一族の残党が残っていたはずである。百済出身の不比等やその後の藤原氏もそのことは知っていた。藤原氏はヤマト王権に敵対していた準王一族に藤付き姓を与えた。
 藤原氏の始祖は藤原鎌足である。藤原鎌足は百済出身であり中国の兵法書「六韜」を暗記していた(藤氏家伝)。天武天皇は子供は親とは違うという考えに基づいて、鎌足の子供三人を引き取った。しかし不比等も「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し倭国の天皇を毒殺した。
 太安万侶は天武天皇に頼まれていた原古事記を編纂し713年に穂積天皇に献上した。しかし、穂積天皇に渡る前に不比等に渡った。不比等は原古事記を読み、百済(日本)の歴史書を創ることを思い立った。720年に日本(百済)書記は完成する。その後、京都に遷都後も日本書紀の改ざんは藤原氏によって続けられていく。
 数百年かけて日本書紀は改ざんされた後、世に出されたが、これは大日本史を250年かけて編纂した藤原氏のやり方である。

2 現在、「藤」付き苗字の人が日本の総人口に占める割合はざっと6%だそうである。8世紀の日本の総人口が500万人ぐらいとすると、「藤」付き苗字の人は奈良時代に30万人くらいいたことになる。不比等があとで調べて、百済出身者(準王一族)にあと一字に意味を込めて姓を与えたとしても不思議はない。
 島根県・宮崎県・奈良県・三重県・和歌山県に広くて大きいテーマパークを造り、東大寺の大仏を造るだけの人手は準王一族(蝦夷)でまかなえた。
 不比等は日本征服の記念誌たる日本書紀を作るにあたって、伯耆国に天皇がいたことをことごとく消し去る作業をしている。それは恨みではなく征服を完全なものにするためであった。伯耆国の地名や神社や伝承を百済の王族の正当性を作り上げるためにその外(九州や出雲や大和等)に移した。
 鳥取県北栄町にあった葦原中津国を宮崎県に持っていき、神武天皇の兄弟四人がおられた四王寺山を宮崎県高千穂町の四王子峰に移し、大物主も、伊須気余理比売も溝咋姫も奈良と茨木市に移して伯耆国にいたことを解からないようにした。また、出雲大社と伊勢神宮も創建した。
 宗形三姉妹も米子の胸形にいたのを北九州の宗像大社に移した。孝霊天皇がおられたこともすべて消し去り、日本書紀には記載しなかった。初代から31代までの天皇のことも書かなかった。天孫降臨で、葦原中津国を明け渡した大国主命が出雲に行ったことは書いたが、事代主命・建御名方命のことも書いてない。
 不比等は、神社の祭神を書き換えたり、潰したり、神主を変えたり、新しい神社やテーマパークを作ったり、新たに伝承を植え付けたり、新たな地名を創設したりした。また多くの「百済」の悪行の部分は「新羅」に書き換えた。「新羅」の善行の部分は「百済」に書き換えた。藤原氏は、「嘘も百回言えば本当になる」という信念を持っている。
 また、伯耆国、蒜山、美作国の伝承も恐怖政治によってきれいに消した。​



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