千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
孝霊天皇一族について [倭国大乱の原因]
天照大神は徐福であった [徐福、天照大神]
邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった [天孫降臨]
蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった [百済王12代から45代までの倭国王]
1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。
磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。
2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。
履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。
3 金操溜池(かなぐりためいけ)
右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。
通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。
底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。
池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。
4 島古墳群発掘調査報告書より
池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。
7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。
5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。
8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。
蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。
島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574
島集落からは縄文中期~縄文晩期の遺跡も発掘されている。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。
島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048
ぜひご覧になってください。
5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。
蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。
用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。
蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。
蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。
神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった [神武天皇と欠史八代]
1 第11代垂仁天皇(伊久米伊理毘古)の本拠地は岡山県久米郡美咲町百々大宮としたが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名とされる。岡山県の久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、鳥取県倉吉市の大宮は弓削なり久米の地名は岡山県より近くにある。ということは、ここにいた王は第11代よりも初期であったという推測が成り立つ。
火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。
2 地図より
県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
左上は小鴨川。小鴨川の上流には耳集落がある。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は広瀬川に架かる橋一本で孤立している。大宮集落の隣は弓削集落。小鴨川周辺は伯耆国の旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。
倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。
大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器
白鳳期に創建された大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(溝に落ちて一つだけ残っていた)
3 神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。橿原神宮が創建されたのは明治23年で国威発揚のためであり、テーマパークとして創建されたので史実に忠実ではない。奈良の橿原神宮を橿原宮とする説は少数である。
4 大宮の前にある小鴨神社
予測した通り、この神社から、若い頃、兄たちと居られた四王寺山が見える。
小鴨神社の祭神は奈良時代まで神武天皇であったはずである。全国の神社を掌握した藤原氏によって祭神が替えられたものと思われる。
5 県道38号線より
大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。
6 弓削集落
7 私見
饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。
神倭磐余彦は火火出見(鸕鶿草葺不合)の子として四王寺山(日向)で育った。九州の鬼八を平定して五瀬と鳥取県中部に帰ってきたが、五瀬は長髄彦の矢があたって亡くなり、神倭磐余彦は福山市に退却して出雲から出てくる略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)を平定し、瀬戸内周辺の住民に高地性集落を造らせて略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)から命を守らせた。また、自分たちが生まれ育った倭国を取り戻す機会をうかがっていた。東は摂津国まで平定し明石にいた椎根津彦を引き連れて岡山県の旭川を北上し、蒜山高原を過ぎて鳥取県江府町の鏡ヶ成から倉吉市上大立(穿邑)に降った。江府町江尾に帰っていたウマシマジも神倭磐余彦に合流した。道臣たちは山側(南側)に穿って道をつけた。広瀬・円谷線もその一つであった。長髄彦のいた富海を遠まきにするように道をつけている。長髄彦は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。神倭磐余彦とウマシマジはその南で長髄彦と対峙した。長髄彦一族を平定してから倉吉市大宮に皇居(橿原宮)を置いた。長髄彦は亡くなったが一族は生田に移り住んだ。現在の倉吉市は長髄彦一族(出雲族)が中心になって築かれた自治体である。
日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。
第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。神倭磐余彦は倉吉市大宮で初代天皇として紀元前60年に即位した。神倭磐余彦の4兄弟の育った四王寺山の前の土塁(中尾遺跡)から紀元前100年頃の住居跡と国内最長の鉄矛が発掘された。
稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。辰韓から来る途中の隠岐島から鳥取県中部(倭国)までの海が荒れないように上里神社を建立した。紀元前70年に稲飯命は辰韓に現れた。紀元前60年は現れてから10年経ったので、10歳と表現されている。稲飯命は紀元前57年に新羅を建国した。
赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。
小鴨川の上流に神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志(古代の舵)と言われていた高さが推定25mくらいの建物(出雲大社のモデル)のあった湯梨浜町の長瀬高浜に到る。多芸志耳は長瀬高浜の高い建物に上がり、新羅から難波津(東郷池)に来る船を誘導していた。
日本書紀は列島における百済再興のために制作された [閑話休題]
神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった [日向三代と神武天皇四兄弟]
内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった [邪馬台国・卑弥呼 その2]
内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった
1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫の豊(トヨ)といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。
内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。
2 私見 「倭迹迹日百襲姫命=稚日女命=倭姫命」について
(1)倭迹迹日百襲姫命=稚日女命について
鳥取県伯耆町鬼の館の説明板には「孝霊天皇が鬼と戦っているとき、ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました」とある。
鳥取県伯耆町栃原の山田神社の祭神は孝霊天皇である。
孝霊天皇と稚日女は鳥取県神社誌のなかで出雲国に接する日野郡と西伯郡に集中している(この時鳥取県は2市7郡であった)ので、倭国大乱の時代に一緒に出雲族と戦っていた。孝霊天皇と稚日女は同時代の人物である。この天津神は孝霊天皇の後ろにいた稚日女である。
孝霊天皇の時代このようなお告げができる人物は誰だったのだろう。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた女性であった」とされる。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫がお告げをしたと思われる。出雲王家の子孫の富氏の口伝に「出雲族は天孫族と戦っていた」とある(「謎の出雲帝国」より)ので、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と一緒に出雲国と隣接する地域(日野郡と西伯郡)で出雲族と戦っていた。
倭国大乱とは天孫族と出雲族の争いであり、この時代の天孫族は孝霊天皇一族であった(神武即位年を紀元前60年とすると、倭国大乱の時代は孝霊天皇になる)。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であったと解することによって魏志倭人伝にある「台与は卑弥呼の属していた宋女(王室の女)」という記述にも合致する。
稚日女は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(日女)であった。
(2)稚日女命=倭姫命について
全国の稚日女命を祀る神社の由緒を見ていくと稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)を終の棲家にしたことが判る。
伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)には伊射波登美も祀られている。倭姫命は伊雑(いざわ)神社(志摩国一之宮)で天照大神を伊射波登美に祀らせた。どちらの姫も伊射波登美と関係しているので同時代の姫である。魏志倭人伝にある「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する」とは伊射波登美であった。
どちらの姫も海女からアワビの献上を受けている。纏向遺跡からアワビの殻がたくさん見つかった。どちらの姫も纏向遺跡の時代の姫であった。
魏志倭人伝に「下女千人を自ら侍らせる」とある。下女千人は志摩国の海女であった。現在でも千人近くいる。志摩国の海女は倭姫の時代に始まっているから倭姫が連れてきた采女が志摩国の海女のルーツであった。
どちらの姫も伊射波登美と関係しており、同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。
稚日女命は倭姫命であった。
(3)倭迹迹日百襲姫=倭姫命について
(1)より倭迹迹日百襲姫命=稚日女命、(2)より稚日女命=倭姫命だから倭迹迹日百襲姫=倭姫命となる。
ちなみに、倭迹迹日百襲姫は讃岐国で水稲稲作のためにため池を造ることを始めた。倭姫命は志摩国で水稲の良い品種を発見し全国に普及させた。どちらの姫も水稲稲作の普及に尽力している。
3 国史では豊鍬入姫(台与)が先であり倭姫(卑弥呼)が後であることについて
(1)国史では豊鋤入姫は10代崇神天皇の皇女、倭姫は11代垂仁天皇の皇女とされるが、史実は倭姫は7代孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫は8代孝元天皇の皇子の彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記)であった。豊鋤入姫は魏志倭人伝の台与であり、神功皇后のモデルである。
倭姫命世記は伊勢神宮の起源を表すものとされるが改ざん創作されている。また、古事記・日本書紀も倭姫命世記に合わせて改ざんされている。
中国には倭国の歴史を改ざんする動機がない。魏志倭人伝は改ざんされておらず、国史のほうが改ざんされている。なぜ国史は豊鋤入姫を先にし倭姫を後にしたのであろうか。
もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなかったらどうであろうか。宇陀は纏向遺跡から隠れたような場所にある。纏向から段々遠のいていく倭姫の巡行だけなら、纒向で祭祀をするのだが、安全な居所を探すための巡行だとわかって、全国から神道の代表者を集めて祭祀をしていたことが判ってしまう。藤原氏以前に全国を統一していた王朝があったことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。
(2)伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が倭国を乗っ取る以前に全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために創られた。伊勢神宮を創建したもっともらしい由来も必要であった。
倭姫命世記は伊勢神宮の由来を表すものとしてつぎはぎして作られた。豊鋤入姫と倭姫の巡行はもともと違う巡行であり、目的も時代も違うものであった。それを継ぎ接ぎし、まだなかった伊勢神宮を書き加えて伊勢神宮に帰ったように書いた。
倭姫命世記に「伊勢神宮を礒宮(いそのみや)といふ」とあるが、画像を見れば伊雜宮こそ礒宮であった。伊雜宮に使われていた礒宮(いそのみや)を伊勢神宮に移し替えた。
「丁巳冬甲子、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る」からの記述は急ににぎやかになるので、にぎやかなのが好きな藤原氏による加筆が見られる。すでに伊勢神宮があったかのように思わせるためである。「戊午秋九月の千穂」からの記述は原文のままだが、「また明る年秋のころの八百穂」からの記述は八の好きな藤原氏によるのちの加筆である。伊勢神宮に帰ったと思わせるためである。倭姫命は伊勢国に引き返してはいない。この時代は倭姫命の創った磯部の伊雜宮しかなかった。倭姫命は志摩国(邪馬台国)の鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)に名を変えて生涯を終えた。
(3)倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、豊鋤入姫は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行であったから倭国(鳥取県中部)とその周辺の3ヶ所を巡行するだけでよかった。別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。
卑弥呼は全国・半島と21国を巡行した倭姫命であり、台与は6ヶ所だけを巡行した豊鋤入姫命であった。豊鋤入姫の時代は倭姫によって既に全国は統一されていた。
藤原氏は整合性を考えてひとひねりした。それは、6か所を巡行して三輪神社に帰ってきた豊鋤入姫命を倭姫命より先にすることであった。欠史8代の皇女とすることは禁止されていたから、許されるぎりぎりの10代の皇女にした。そして、倭姫命を次代の姪(11代の皇女)に持ってきた。そうすれば、三輪神社で終わる豊鋤入姫命から、奈良の宇陀で始まる倭姫命がバトンタッチしたように整合性を謀れる。この作り話のために宇陀の近くに三輪神社がなければならなかった。そのために奈良の三輪神社(本当の三輪神社は鳥取県北栄町下神の三輪神社)は創られた。このことによって、藤原氏以前に全国を統一していた王朝があり、全国から神道の代表者を纒向に集めて祭祀をしていたことを消すことができる。
「倭姫命世記」は「倭姫命が奈良の纒向で祭祀をするために安全な居所を探すための巡行」と「台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」とを順序を入れ替えて創作した創作物語であった。倭姫命は21国を巡行しても元気なのに、豊鋤入姫命はわずか6国しか巡行していないのに疲れたとする。その点でもこのバトンタッチはおかしいことがわかる。
4 卑弥呼は倭国大乱の時期(146年~189年、霊帝が168年からだから少なくとも170年頃までは終結していない)に活躍して、のちに女王となったから170年頃には成人であった。したがって卑弥呼は150年頃には生まれていなければならない。私見では151年~248年の96歳の生涯であった。魚介類を食し、人に尊敬されていれば長生きできるようである。卑弥呼が生きていた時代は纏向遺跡の時代と重なる。倭姫命も纏向遺跡と同時代の姫である。倭姫命の巡行は纒向に祭祀場を創ってそこで祭祀をすることを前提とした安全な居所を探す巡行なので纒向遺跡の時代でも初期の時代の姫である。
纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向に祭祀場を造ることを前提として190年ごろに唐古・鍵集落などの環濠を埋めさせた。纒向編年では270年から290年に百済・馬韓ではなく古式新羅加耶土器(慶尚南北道、新羅・加耶地域のもの)が出土している。豊鋤入姫(神功皇后)の時代である。神功皇后は三韓征伐をしたとされるが、倭朝廷は新羅と兄弟国であった証拠である。
倭姫命と倭迹迹日百襲姫命はどちらも卑弥呼であり同一人物であった。内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった。混乱の原因は、倭国の元(原本)を書き換え、倭姫命と豊鋤入姫命の順番を入れ替えた藤原氏であった。
5 参 考(鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神)
西伯郡・日野郡(当時、鳥取県は2市7郡)はどちらも出雲国と接している。
〇 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)
〈鳥取県東部〉
久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947
都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511
〈鳥取県西部〉
高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
現住所 西伯郡大山町宮内
楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中
現住所 西伯郡南部町中(篠相)
楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
現住所 米子市上安曇
山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
現住所 日野郡江府町杼原
楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
現住所 西伯郡伯耆町宮原
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原
〇 倭建命
〈鳥取県東部〉
武王(倭武王)大明神と称していた神社
古市神社(武王大明神) 現住所 鳥取市古市657
安富神社(武王大明神) 現住所 鳥取市天神町
神護神社(武王大明神) 現住所 鳥取市国府町神護675
面影神社(武王大明神) 現住所 鳥取市正蓮寺192
禰宜谷神社(武王大明神) 現住所 鳥取市祢宜谷227
細川神社(武王大明神) 現住所 鳥取市福部町細川350
恩志呂神社(武王大明神) 現住所 岩美郡岩美町恩志95
杉森神社(武王大明神) 現住所 鳥取市下砂見530番
宮小谷神社(武王大明神) 現住所 鳥取市用瀬町赤波2441
〈鳥取県中部〉
今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山
祭神 日本武尊
中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上
祭神 日本武尊
〈鳥取県西部〉
阪本神社 鎮座地 米子市長田字長砂
祭神 日本武尊
宗形神社 鎮座地 西伯郡成実村宗像
祭神 日本武尊
熱田神社 鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口
祭神 日本武尊
一ノ具神社 鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷
祭神 日本武尊
菅福神社 鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
祭神 稚武彦
菅沢神社 鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原
祭神 稚武彦
湯谷神社 鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田
祭神 倭武命
楽々福神社 鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮
祭神 若建日子吉備津日子
楽々福神社 鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
境内神社 祭神 稚武彦
〇 伊福部氏系図第十四代 武牟口命
虫井神社 現住所 鳥取県八頭郡智頭町大呂967
多加牟久神社 現住所 鳥取市河原町本鹿387
〇 稚日女命
〈鳥取県東部〉
折井神社 岩美郡成器村大字新井字宮の谷
〈鳥取県西部〉
平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
現住所 米子市淀江町平岡
富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
現住所 西伯郡大山町妻木
前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
現住所 西伯郡大山町古御堂
古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
現住所 西伯郡大山町加茂
前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
現住所 西伯郡南部町西
岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
現住所 日野郡日南町多里
吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
現住所 日野郡江府町吉原
大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
現住所 西伯郡伯耆町大原
安屋咩神社 安来市赤江町400
〇(神)倭姫(比女)命
〈鳥取県西部〉
天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
現住所 西伯郡南部町天萬
高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
現住所 西伯郡南部町高姫
蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
現住所 西伯郡日吉津村日吉津
記紀の高天原は蒜山高原であった。 [徐福、天照大神]
1 高天原について
「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。
高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。
葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。
2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)
(1)天上説(本居宣長)
戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。
(2)滋賀県米原市伊吹山山麓
「平家物語」に、「天照大神が草薙剣を高天原から伊吹山に落とした」とある。※私見:平家物語は信用できるか
(3)阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町
「日の宮・幣立神宮」は高天原神話の発祥の神宮である、とする。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。※私見:天の神が高天原から降臨した地は高天原ではない。
(4)鳥取県八頭郡八頭町霊石山・伊勢ヶ平
天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。※私見:田があった高天原とするには狭すぎる。
(5)大韓民国慶尚北道高霊郡
当初その比定地とされたのは、素戔鳴尊が立ち寄ったという江原道春川市であった。春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者。※私見:天孫降臨につながらない。
(6)九州邪馬台国説
筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原とする説。※私見:天孫降臨につながらない。
(7)岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)
茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。※私見:これは蒜山説ではない。蒜山説は高天原は蒜山高原全体とする。
3 蒜山高原を高天原とする根拠(私見)
(1) 高天原の主役は天照大神である。長田神社と加茂神社と福田神社と茅部神社と徳山神社は天照大神を祭神とする。 蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。
(2) 邇邇芸命は高天原から降った。(古事記)
長田神社と加茂神社は邇邇芸命を祭神とする。これでわかったことは、4歳の邇邇芸は旭川下流の岡山県内で生まれ、鏡ヶ成ではなく犬挟峠を越えて矢送神社に降臨したこと。猿田彦が待っていた鏡ヶ成から降ったのは邇邇芸ではなく饒速日だったということがわかった。そのあとも繋がっていく。
続きは別稿「天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった」を参照されたし。
(3) 神倭磐余彦も高天原から降った。(古事記)
古事記には「ここに饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。『天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました』」とある。
加茂神社と福田神社は神倭磐余彦を祭神とする。これでわかったことは、神倭磐余彦は福田神社まで行っているので、鏡ヶ成から降ったということである。犬挟峠から降れば道に迷うことはないが、鏡ヶ成から降ったので道に迷った。出雲族に気付かれないようにするために鏡ヶ成から降らなければならなかった。降った穿邑は倉吉市上大立であり、そのあとも繋がっていく。
続きは別稿「神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた」を参照されたし。
鳥取県江府町も高天原であった。
4 蒜山高原の夜明け
右下は高速米子道
高天原の比定地は全国に17あるという。高天原やそれに近い地名のあるところは高天原ではない。本当の高天原に「高天原」の地名がついていたらとっくに藤原氏が消している。本当の高天原はそれらしい名前の付いていないところである。
高天原の主役は天照大神である。天照大神に焦点をあてなければならない。高天原は5神社すべてに天照大神を祀る蒜山高原である。
蒜山周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。
邇邇芸は高天原から降臨した(古事記・日本書紀)。神武天皇も高天原から降った(古事記)。蒜山高原には邇邇芸が長田神社と加茂神社、神武天皇が加茂神社と福田神社に祀られている。神社の位置関係より、邇邇芸は犬挟峠から降臨し、神武天皇は鏡ヶ成から降臨したことがわかる。
全国の17ヶ所の高天原候補地の中でその形跡がぴたりと残る候補地は蒜山高原だけである。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原を通過したのであり、高天原は蒜山高原(但し、鳥取県江府町も含む)であった。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨した。
5 蒜山高原に水田は多い。
高天原には水田があったとされるが、蒜山高原には水田が多くみられる。蒜山高原は水田稲作も多くみられるので、水田稲作ができないから高天原を去り葦原中津国に降ったという理由には疑問がある。葦原中津国(鳥取県中部)に降臨したのは他に理由があった。
紀元前210年の徐福一行は人口を増やしたかった大神(伊邪那岐)と葦原中津国(鳥取県中部)で再会し「連れてきた少年少女を水稲稲作の出来るここ(葦原中津国)に住まわすよう」指示されていた。徐福一行が蒜山高原を中心にして周辺の山々から仙薬を探している間に、徐福一行に遅れること16年後の紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族(八十神)が葦原中津国を占拠して騒がしかった。遣わされた天忍穂耳も葦原中津国が騒がしいと言って帰ってきた。徐福一行は大神(伊邪那岐)との約束の地(広沢=水稲稲作の適地)を取られまいとして蒜山高原・鳥取県西部から鳥取県中部に降臨した。
根国での冒険のあと大国主は葦原中津国に住んでいた準王一族(八十神)を蹴散らして従わせていた。徐福は準王一族(八十神)の動向を探るために天穂日をその本拠地(熊野大社)に行かせた。紀元前185年頃に饒速日と徐福たちの大勢(第一次)は江府町下蚊屋→鏡ヶ成→野添→神田神社に降臨した。徐福は神田神社から琴浦町の斎王集落(伊勢)に降臨して平原(方見郷)と広沢(葦原中津国)を得て自ら天照大神と名乗った。鳥取県江府町にいた饒速日は神田神社から日吉神社に行き、船で小鴨川を下って河内国の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に降臨した。徐福(天照大神)一行にとって仙薬も大事だが連れてきた少年少女を育てるために、水田稲作に適した葦原中津国も重要であった。