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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった [徐福、天照大神]

 速玉男命は徐福(紀元前219年の第一次)の重臣であった。

 徐福一行の第二次(紀元前210年)は辰韓に渡り次々に伯州(伯耆国)に向けて出港し伯州(伯耆国)に結集したのであるが、第一次(紀元前219年)のときは、対馬海流を考慮していなかったため、船出した船は列島に散りじりに漂着した。熊野もその一地域であった。

1 新宮の徐福公園の碑より
 日本の書物の長寛勘文には「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とある。
 徐福公園の七塚の碑
 徐福の墓の横には、徐福の重臣7人を祀った石碑が立っている。7人の墓はもとは円墳で、蓬莱山を中心として北斗七星の形を表して造られていたらしい。明治時代にはこれらの墓が存在してたが現在は不明である。

※ 私見

 徐福の重臣7人の古墳を造ったのは京都の藤原氏であった。京都の藤原氏は徐福一行の古墳が円墳であることを知っていた。鳥取県中部に古墳は2395基あるが、そのうち2338基(97.62%)は箱式木棺・石棺を土で封じた円墳である。徐福一行の古墳は円墳であった。鳥取県中部にいた一族は徐福一行であった。徐福が留まった倭国とは鳥取県中部であった。  

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2 新宮市観光協会のホームページ  熊野速玉大社より
 「速玉」の社名の由来は、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説がある。
 社殿には七体の古神像(重要文化財)が安置されている。このうち四体は平安時代初期の作と伝えられる。
 熊野権現御垂迹縁起によると、「唐の天台山から飛行し、日本国鎮西の日子山(英彦山)に八角の水晶の姿で降臨し、更に伊予国の石槌山や淡路の遊鶴羽の峰、紀伊国牟婁郡切部山を経て、熊野新宮の南の神倉山に天降った」とされる。
 神倉山のゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しているが、速玉大社からは山に遮られて見えない。すなわち、神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である。速玉大社はやはり、立地から見て熊野川に坐す神への信仰である。本宮と同一の歴史を持つものである。

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神倉神社

 上がる途中の急な石段で久しぶりに蛇を見た。

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神倉神社より新宮市街を望む

 息が切れるほど高い。降りてから新宮市の観光に携わっているという女性と出会った。「日本の歴史はすべてここから始まった」と言っていたが、伊勢神宮や出雲大社と同じく藤原氏に造られたテーマパークの一つである。熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社は本殿が3~4に分かれている藤原様式である。

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熊野那智大社

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熊野速玉大社

 速玉男命は少し居ただけで、本国ではなく伯耆国に行き、そこで生涯を終えた。藤原氏は原古事記を見ているからもちろん史実を知っているし、鳥取県中部が徐福一行が留まった倭国であり、奈良時代まで都であったことも知っていた。

 藤原氏は熊野に熊野速玉大社を造り、熊野本宮大社の祭神にもした。歴代藤原天皇も来たようである。速玉男命が実際に生涯を終えた福岡神社はほったらかしである。伯耆国の歴史を消し去るためである。 

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熊野本宮大社

主祭神の家津美御子は素戔嗚神ではなく、鬼・土蜘蛛・猿・蝦夷などと呼ばれている青銅器文化の一族であり、この地域を支配していた。天照大御神・素戔嗚命・速玉男命とは敵対した一族である。

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3 速玉男命を祀る鳥取県の神社

※速玉男命 因幡7社 伯耆21社 計28社 
熊野神社(浦富町)、長瀬神社(河原町)、高山神社、末松神社(気高郡)、新宮神社(宝木村)、新宮神社(逢坂村)、子守神社、立原神社(上余戸)、東郷神社、上小鴨神社、天乃神奈斐神社、柴尾神社(以西)、船上神社(以西)、葦原神社(安田)、日御碕神社(陰田)、熊野神社(東長田村)、熊野神社(賀野村)、岸本神社、岡成神社、熊野神社(アビレ村)、多里神社、宮市神社、大森神社(以西)、山根神社、中川神社、野上荘神社、福岡神社、神奈川神社

 

4 鳥取県伯耆町福岡神社の蛸舞式神事
 福岡神社由緒(昭和九年の鳥取県神社誌より)
「旧若一王子権現と称す。若一王子は熊野三社の内、速玉男神なり。上古、紀伊国熊野浦より海上大蛸に乗り、吉備国へ上陸。この地に至り給うと。故に俗称蛸大明神と云う。社後の岡に崩御所と伝うる墳墓あり」とある。

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福岡神社。地元が維持管理している。

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礎石の下にあった蛸の石像。

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社後の岡の崩御所

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速玉男命はここに眠る。

 福岡神社では、伯耆町が全国に誇る伝統行事「蛸舞式神事」が毎年10月に行われる。 その昔、速玉男命が熊野灘(和歌山県)で遭難した際、大蛸に助けられ、無事吉備国へと上陸。その後、この地を訪れたという故事にちなみ、このお祭りが行われてきた。

5 私見

 神倉山から銅鐸が見つかっているので、ここに降臨した熊野権現は青銅器文化の一族(準王の一族)であり、徐福の一行(ヤマト王権)とは敵対するものである。神倉神社と速玉大社は基本的には無関係な信仰である、と解するのは正しい。
 鳥取県の神社に多く祀られているのは、鳥取県でしばらく活動していたからである。速玉男命は蒜山(高天原)にいた徐福(天照大御神)を探して鳥取県に来ていた。福岡神社の日本の3大奇祭に数えられる蛸舞式神事は速玉男命が徐福(天照大御神)にあったときの喜びを表現した舞である。

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