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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

黄泉平坂は主に鳥取県道23号線であることは遺跡分布より明らかである [黄泉比良坂]

1 鳥取県は奈良県とどちらが多いかと言われるほど遺跡が多い。その中でも鳥取県中部は遺跡の密集地(県全体の3分の2を占める)である。その中でも倉吉市上神地区周辺は遺跡が密集する地域であり、密集度は全国で1位である。蜘ヶ家山には猿田彦一族が縄文前期からおり、四王寺山には弥生中期から神倭磐余彦の4兄弟がいた。

 鳥取県中部には、まだ未発掘の遺跡が多くあることは考古学会でも知られているが、中央の学会は明るみに出ないように蓋をするばかりである。中央の学会は古事記・日本書紀を改ざんした藤原氏(亡命百済人)の流れだから、古事記・日本書紀を優先し矛盾する考古学的発見には蓋をする。したがって、定説と異なる考古学的発見を理由づけして全国に公表しようとする者は今までいなかった。

 分布図を載せますのでご覧になってください。線で囲んであるのは古墳群。島古墳群は39番。右の向山古墳群で500以上の古墳がある。

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2  クズマ遺跡第2次発掘調査報告書より

 蜘ヶ家山と四王寺山に挟まれた上神地区周辺(黄泉平坂)は、倉吉市でも有数の遺跡が密集する地域である。上神51号墳墳丘盛土で細石刃石核が出土するなど、その始まりは旧石器時代に及ぶことが明らかになっている。縄文時代では、取木遺跡の竪穴式住居・平地式住居と焼石群(101)、イキス遺跡の落し穴(100)などが、弥生時代前期ではイキス遺跡の土墳墓群(100)が知られる。弥生時代中期では、西前遺跡(70)A地区で竪穴式住居が確認されている。弥生時代後期以降、遺跡の数は増加する。

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※ 私見

 黄泉平坂はイザ原遺跡(75)あたりから始まる。蜘ヶ家山(葛城山)と四王寺山(畝傍山)に挟まれた上神地区周辺を通る。不入岡から上神までは緩やかな坂であり女坂であった。上神から蜘ヶ家山を登り、原に至るまでは急な坂であり、男坂であった。

 伊邪那美が伊邪那岐を追いかけたのは縄文晩期である。素戔嗚が大国主を追いかけたのは弥生前期である。遺跡の分布状態より黄泉比良坂は上神より蜘ヶ家山を通り北栄町原に達していた。

 

3  おまけ  東郷池周辺(難波=師木)の遺跡分布

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 東郷池周辺(難波=師木)は新羅からの船や使節を迎えるため、歴代天皇は一宮か二宮をシキの宮として東郷池周辺(シキ)に置いていた。東郷池周辺は宮の候補地が多いためどの大王の宮か特定することは難しい。

 

 


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