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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

明治初期の太政官制について [藤原氏]

明治初期の太政官制について


1 ウィキペディアより


 政体書に基づいて1868年6月17日、日本の新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して律令制を導入した時よりあった。太政官は中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の八省を統括する最高機関である。
1869年8月15日(明治2年7月8日)に、新しい太政官制が導入された。太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。太政官には左右両大臣と3名の大納言、3名の参議からなる「三職」が置かれて指揮をとった。
☆左大臣
近衛忠房
(藤原五摂家)1867年10月24日 ~1867年12月25日
九条道孝(藤原五摂家) 1867年12月25日~1869年7月13日

☆右大臣
大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年12月25日~1868年7月13日
三条実美(藤原北家閑院流の嫡流)
1868年7月13日~1869年8月15日
☆内大臣
近衛忠房
(藤原五摂家)1864年1月31日~1867年10月24日
大炊御門家信(藤原北家師実流) 1867年10月24日~1867年12月25日 

広幡忠礼(藤原正親町天皇源氏嫡流)1867年12月25日~1869年8月15日
☆大納言 1869年7月~1871年7月
岩倉具視(藤原村上天皇源氏久我家)
徳大寺実則
(藤原東山天皇の流れ)
☆参議 1869年7月~明治18年
西郷隆盛(藤原氏の子孫を自称)
大久保利通(藤原氏末流を自称)
大隈重信(菅原道真の血筋)
前原一誠(長州藩士)
木戸孝允(長州藩士)
板垣退助(土佐藩士)
2 私見
 左大臣、右大臣に分ける制度(百済の制度)は天智天皇が始めた。天武天皇は両大臣制を止めてヤマト朝廷の制度に戻していたのであるが、持統と不比等によって両大臣制(百済の制度)を復活させた。
 左大臣、右大臣、内大臣、大納言までは藤原氏の正当血脈の華族が就いている。西郷隆盛と大久保利通が藤原氏の子孫であることを自称している。自称したくなるほど藤原氏の権勢が強かったのであろう。


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